神道フォーラム 第41号 平成23年9月15日刊行

行雲流水:「勝者の矜持は?」

 なでしこジャパンの女子ワールドカップ優勝は、世界中の耳目をそばだたせたのみならず、東日本大震災以来、官民ともに沈みがちな日本人に感動と勇気を与えた快挙だった。特に優勝戦では、これまでどうしても勝てなかったアメリカを、延長戦の末、PK戦で破ったのは見事だったといえる。勝利の瞬間、澤穂希主将をはじめ全員が歓喜に酔いしれたのも当然だが、たった一人、宮間あや選手だけが、敗れたアメリカチームに駆け寄り善戦を称え、労をねぎらっていたのが印象深かったし、これを映像入りで報じる欧米のメディアも多かった。
 キャプテンである澤選手が、アメリカチームのワンバック主将に、宮間選手と同じことをやってくれていれば、勝者の矜持として素晴らしかったし、なでしこジャパンの株はもっと上がったに違いない。スポーツの世界で勝者が敗者をねぎらい、善戦を称え、慰めるのは至極当たり前のことなのだが、戦後の日本の教育では、まず小学校レベルの運動会でも勝ち負けを決めることすら「差別につながる」としてこれを敬遠し、全員にこにこ平等に参加賞、みたいな風潮が広がってしまったために、勝者とは何か、という教育も経験も希薄なまま育ってしまった。
 その結果として、勝者の矜持といわれてもキョトンとするだけなのは仕方のないことかもしれない。しかし世界ではスポーツでもビジネスでも平等はあり得ないし、勝者がいれば敗者もいるのが当たり前。日本や日本人だけがガラパゴスを決め込もうとしても、それは通用しない。 
 敗者にたいする思いやりだけではなく、国際的な映画祭、テレビ番組コンテスト、音楽コンクールなどで優勝なり入賞した日本人の受賞挨拶のお粗末さも際立っている。ただただ「サンキュー」を繰り返したり、「信じられない」、や「驚いた」というだけで、「スタッフに感謝する」とか自分を支えてきた人々に対する配慮のある挨拶はほとんどないのも、(アジアの国々を含む)他国の人たちの受賞挨拶とは異質である。
 これも世界の舞台で受賞する経験の少なさが原因なのかもしれないが、それにつけても基本的に礼儀正しいはずの日本人が、まるで礼節をわきまえない子供のような反応をするのはみっともないといえよう。帝は民の竈の煙の少なさを憂い、将軍は武将の功をねぎらうといった伝統は、現代の世界にも通用する精神ではなかろうか。
春 秋 子

国際シンポジウム「神仏の森林文化」を聴講して

 この国際シンポジウム「神仏の森林文化」を聴講するにあたり、日本に於ける神仏混淆を自分なりに少し整理してみました。
 日本人はこの世に生をうけ、生後30日前後にお宮参り、七五三の祝い、御祭、御祓い、初詣で、結婚式等々、神道との繋がりは日本人の生活の中に深く根差しています。
   一方、人間が亡くなるときは、仏教徒として人生を終えます。同時に、墓参りやお寺での法事の際には、亡くなった家族・友人の御霊を身近に感じます。そのように古代から神・仏は日本人にとって精神文化の大きな拠り所でありました。
 7月10日、日本人の原郷・神仏の聖地である熊野で、「国際森林年」記念シンポジウムを開催頂きましたことは、真に感慨深いものがあります!
   神道界の第一人者の先生方に直接ご講話を頂いたことは、この上ない喜びと感謝の気持ちで一杯です。なかでも、八百万の神が鎮座される熊野について、アメリカで研究されているマックス・モーマンさんのお話しに強い感銘を受けました。
   那智の滝について、以前宗教学者の山折哲雄先生からお聞きしたことがあります。
   那智の滝は世界に冠たる滝で、日本人の神・仏に対する信仰が凝縮されている聖地である。更に、根津美術館に所蔵されている国宝「那智瀧図」は垂迹画の名品で、フランス元大統領ドゴールさんが絶賛されていたとのことです。
   今回のシンポジウムは、先生方の講話が興味深く、更なる知識欲を掻き立てられると共に、熊野を通して世界における日本の在り方など多くのことをご教示いただきました。
   プレゼンテーションをいただいた先生方、並びにスタッフの皆様に衷心より御礼申し上げます。
   ここで、お許しをいただいて、私たちのNPO法人Mi・Kumanoについて、簡単に紹介させていただきます。
   Mi・Kumanoは、外国からの来訪者を英語でご案内するガイドの集まりで、最近では日本語でのご案内も増えています。ライセンスを持った本格ガイドたちと、実費だけをいただくボランティア・ガイドたちが会員です。
   私たちの主たる目的は、国内外からのお客さまに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」をご案内し、その歴史・文化の意義や自然界の美しさをご説明することです。
外国からのお客様には日本の伝統的文化のご説明もし、国際交流と地域の活性化に寄与しています。
   設立のきっかけは、2003年、楠本代表理事がアメリカ人ツアー客を熊野古道に案内したことです。
その時、熊野は必ずや世界にアピールできると直感、その後、「熊野を世界に開こう」をコンセプトに、数人の仲間と2004年12月、Mi・Kumanoを立ち上げ、それが現在のNPO法人になったのは、二年後の2006年11月でした。
 昨年2010年度に私たちがお迎えした外国人グループは、23組でした。今年は、「がんばれ日本・がんばれ東北」をスローガンに掲げ、祈りのウォークin世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」を歩く%大プロジェクトツアーを実施しています。一つは女性限定の「山ガールツアー」、もう一つは「祈りの道バイリンガルツアー」です。
 この二つのツアーは、参加された多くの方々のご好評をいただいていますが、様々な方との一層のご縁を結べますよう皆様のおいでをお待ちしています。
NPO法人Mi・Kumano 中山 仁

神道国際学会便り

本会の本年度第二回理事会を開催
    神道国際学会の平成23年度第二回理事会が7月10日、和歌山県田辺市で開かれ、来年の事業活動などについて討議した。議長は定款に則り大崎直忠理事長が務めた。
   うち、来年2月に予定される「神道セミナー」に関しては、大震災からの復興を願って東北地方で開催することが提案され、テーマは「災害と再生」を軸に再検討することとした。
   また来年度の開催を検討しているアメリカ・UCSB(カリフォルニア大学サンタバーバラ校)との共同イベントについても討議した。
   このほか、役員人事や神道エッセイ・コンペティションなどについても議論した。

第12回「日本思想文化研究」優秀論文コンク ールの結果発表

   神道国際学会が浙江省中日関係史学会と共催している中国語の「日本思想文化研究」優秀論文コンクールが、2010年に12回目を迎えた。
   今回の応募者は20数名に達し、中国大学の若手研究者がメインメンバーだったが、日本大学在籍の中国人博士コースと国内修士課程の学生からの応募もあり、中国における日本研究の後継者が成長している現状の一端がうかがえた。
   コンクール審査は予選と決勝戦を通して、左表の11本の作品が選ばれ、二等賞が二本、三等賞が3本、優秀賞は6本という結果になった。今回の審査委員には、北京大学と復旦大学の先生がたにお願いし、厳正な審査が行なわれた。
   7月25日、第5回「日本歴史文化高級講習班」の開幕式にあわせ、第12回「日本思想文化研究」優秀論文コンクールの授賞式が、杭州で開かれた。受賞者代表のほかに、多くの人々も授賞式に参加した。
   浙江省中日関係史学会副会長の陳小法氏がコンクール実行の経過を説明し、審査結果を発表した。実行委員会主任である王勇教授が受賞者代表に賞状と賞金を贈呈し、景徳鎮陶磁学院の教師王麗氏が受賞者の代表として感想を語った。授賞式は参加者の大きな拍手で幕を下ろした。

連載・神道DNA「ソーシャルメディアと社会秩序」 三宅善信師

  昨年末のチュニジアの政変から始まった「ジャスミン革命」と呼ばれる民主化運動は、新しい時代のソーシャルメディア(註:インターネットや携帯電話網を用いた大衆個々人による世界への情報発信ツール)であるフェイスブックやツイッターやユーチューブによって瞬く間に一般大衆へと拡大し、23年間続いたベン・アリ独裁政権があっけなく崩壊した。この波は、北アフリカから中東各地へと飛び火し、自他共に認める「アラブの盟主」エジプトで30年間続いたムバラク政権まで、暴動の発生からわずか2週間で退陣を余儀なくされた。
 この事態に、長年、独裁体制を維持してきたアラブ諸国や東アジアの共産主義国家の指導者たちは、「明日はわが身」と戦々恐々としている。何故なら、これらの国々においては、新聞やテレビなどのマスメディアは、国家権力によって完全に「支配」されており、たとえどこかの地方で、党幹部の腐敗を追及するデモが起きたり、抑圧された少数民族による暴動が発生したりしたとしても、軍隊や公安警察を投入してこれを武力鎮圧し、マスメディアで一切報道しなければ、国民の大多数はそのような「事件」が起こったことすら知らずに、犠牲者たちは闇から闇へと葬られることになるからである。たとえ民衆による反政府の意思表明でなくとも、中国・温州における高速鉄道の追突脱線事故のようなニュースでも、当局にとって都合の悪い記事はたちまち新聞の目立たない片隅へと追いやられてしまうくらいだから…。
 一方、長年遅々として進まなかった中東地域での社会変革が、ソーシャルメディアの普及によって一気に進展したことに西側諸国も驚いている。「九・一一」事件以来10年、アメリカは約五兆ドル(四百兆円)という巨額の戦費と多くの犠牲を投入した対アフガン・対イラク戦争を遂行したけれど、中東の人々の生活様式や思想を少しも変えることはできなかったが、この間、彼らにとっても便利な日常生活ツールとなったソーシャルメディアによって、いとも簡単に中東地域における変革が起こったという点では、西側諸国の指導者たちもあらためて目を見張ったことだろう。
 しかし、このソーシャルメディアは「諸刃の剣」となって西側諸国のひとつである英国を襲った。8月上旬にロンドンで突如として発生し、瞬く間に英国各都市へ拡がった暴動である。この暴動のニュース画像を見ている限り、彼らに何らかの政治的な主張があるというよりも、単に略奪行為を行っているようにしか見えない。画面から見て取れるかぎり、彼らの民族や性別や社会階層に一定のパターンがあるとも思えない。「若者である」という以外に共通性はほとんどない。どこの国においても、ソーシャルメディアの担い手は主として「青少年」であることからして、この暴動の参加者の大半が若者であることの説明は付くけれども…。
 人間が社会秩序を守る理由は三つ考えられる。一番目は、「違反すると警察(国家権力)によって処罰される」から…。でも、もしそうだとすると、「警察がいなければ泥棒をしてもよい」ことになる。それが人間社会の本質だというのなら、そんな国の首相や警察長官は、英国のように夏休みを取得してはいけないことになる。
 二番目は、法律は民主主義的な手続きによって皆で決められたものだから、「国民には法律を守る義務がある」という考え方である。そのことを担保するには「すべての国民が立法に関与する」必要がある。ただし、独裁国家や全体主義国家では、一般市民は立法プロセスに関わることができないので、裏を返せば「一般市民には法律を遵守する責務がない」ことになる。
 三番目は、人間なら「社会規範を守るのは言われるまでもないことである」という考え方である。たとえ大地震によって犯罪を取り締まるべき警察官が全員死んでしまったとしても、「他人の財産を略奪するなんて人間としてするべきではない」という考え方である。もちろん、この三番目のパターンが「望ましい社会」であると思う。
 昨年末から始まったソーシャルメディアによる社会変革は、個人の政治的な意志表明を国家権力によって抑圧された独裁国家や全体主義国家においては、有効な手段であることが証明されたが、市民の政治への参画が正当に保障されている民主主義国家においては、「匿名性」を有するソーシャルメディアは、政治的意思を喧伝するツールとしては、はなはだ危険なものであるかもしれない。おそらく、今回の英国の暴動を見て、欧米の民主主義体制に挑む某国などは、民主主義社会を混乱に陥れる便利なツールとしてのソーシャルメディアの利用法を研究してくるであろう。
 ところで、三番目のような類型の社会にとって、ソーシャルメディアの普及は何をもたらせてくれるのであろうか…。

ロシア連邦事務所便り

国際シンポジウム報告「サンクト・ペテルブルグの白夜」

   6月22日から25日、サンクト・ペテルブルグ国立総合大学哲学部で、第7回国際東洋学大会「トルチノフ・リーディング」が開催された。タイトルの「トルチノフ・リーディング」は、ロシアの有名な東洋学者・宗教学者であるトルチノフ・エウゲニー・アレクセエヴィチュ教授(1956―2003)にちなんで名付けられたもの。
   今年のテーマは「ロシア・東洋国・西洋における東洋国の宗教・文化・哲学体系の変化」で、問題点をさらに深く探るために、1)中国学、2)イスラム教の国々、3)仏教学、4)日本学・韓国学、5)インド学、6)西洋と東洋、7)東洋国における神秘・魔術、というセッションに分けられた。
   およそ100人の参加者は、ロシアからは30都市、国別では10カ国にのぼり、大会使用言葉はロシア語・英語であった。
   私は「日本学・韓国学」というセッションで慈円の愚管抄の言葉(漢字仮名混文)について発表した。このセッションは私以外に発表者が7人いたが、一人が韓国の歴史について、あとは日本の精神文化について発表した。
   私が一番聞きたかったのは、「12〜14世紀の日本密教における神道の女性神の変化」という、ロシア科学アカデミーのレペホワ博士の発表だったが、残念ながら、この発表は「仏教学」のセッションにあって、私が発表したセッションと同時に行なわれたので、聞くことができなかった。
   大会は様々な科学的な問題における国内・国外の研究の新しい流れを紹介して、非常に興味深かった。また、開催時期が白夜の時だったので、参加者はとても楽しい時期を過ごすことができた。
   期間中に、私は神道国際学会ロシア連邦事務所が数年間にわたって密接な関係を持っているロシア国立宗教史博物館を訪問した。そこで、日本陳列品の担当者であるシャンデイバ・セルゲイ・ヴャチェスラヲウィチュ氏と会い、「東洋の宗教―仏教、儒教、道教、神道、ヒンズー教」という常設展について話をすることができた。シャンデイバ氏はこの常設展を見学した人たちが書いた意見帳を見せながら、いかに神道に興味をもっているか聞かせてくれた。

ISF ニューヨーク便り

大祓神事と英語による神道入門講座「伊勢の式年遷宮紹介」
   6月30日、NYセンターでは、20名以上の参加者を得て、春の恒例行事である大祓神事を斎行した。大祓は毎年6月30日と12月31日に斎行しており、毎回欠かさず参列する人も増えてきている。
  祭典に先立ち、中西オフィサーの英語による神道入門講座「伊勢の式年遷宮紹介」が行なわれた。三重県伊勢市に鎮座する伊勢神宮の重要性を述べた後、神宮で20年毎に社殿から宝物に至るまでが新調される式年遷宮について解説。20年に一度、建物や宝物を新調することで、1300年以上前の技術や伝統を次の世代に継承しているという説明に、参加者は熱心に聞き入っていた。
   レクチャーに引き続いて大祓神事が斎行され、参列者によってそれぞれの罪穢れを移した人形が御神前に奉納され、中西斎主がお祓いした。半年毎の恒例神事ということもあり、大祓詞を流暢に奏上する参加者の姿が目立った。

ATT(武器貿易条約)準備会議に出席
   7月11日から15日まで国連本部でATT(武器貿易条約)第3回準備会議が開かれ、ISFから中西オフィサー、林原事務主任が出席した。ATTは核兵器などを規制するNPT(核拡散防止条約)に対し、通常兵器の通商の規制を通じて軍縮をはかるもので、会議には各国政府代表部のほか、軍縮問題に取り組むNGOが出席を認められた。ISFも国連軍縮会議の理事を務めたり、メキシコでの軍縮をテーマにした国連広報局の総会へ出席するなどの日ごろの実績が評価され、今回の出席となったもの。
   会議では条約の実施に向けた仕組みの構築について話し合われ、最終的に参加各国が条約の作成に向けて努力していく事を確認し、閉会となった。様々な分科会が開かれたなかで、中西オフィサーは、かつてノーベル平和賞を受賞したNGO団体アムネスティ・インターナショナルの会合に参加した。アフリカや南米での銃を使った犯罪や暴力についての悲惨な報告を驚きをもって聞き、改めて国際社会における銃器を規制する条約の必要性を認識した。

7月の英語による神道入門講座「伊勢の式年遷宮―ご神木について―」
   7月21日、英語による神道入門講座で、中西オフィサーは「伊勢の式年遷宮―ご神木について―」を講義した。今回は6月の「伊勢の式年遷宮紹介」に引き続いてのレクチャーで、7名の参加者があった。
   中西オフィサーは、遷宮では、用材となるご神木がとても重要な位置を占めると話し、長野県の御杣山の紹介から、ご神木を切りだす「御杣始祭」、伊勢まで運ぶ「御樋代木奉曳式」、外宮・内宮に運び込む「御木曳神事」、さらには御用材が加工され、宇治橋や御本殿が建てられていく様子をビデオなどを交えながら説明した。
またご神木が筏で運ばれていた百年前と、トラックで運ばれる現在との違いを紹介。伝統神事といえどもその姿を変えつつあることを解説し、参加者からは「具体的なことが分かってとても良かった」などの声が聞かれた。

広島・長崎を追悼する世界平和の日の集い「平和の鐘を鳴らそう」に参加
   8月5日、国連チャーチセンターで広島・長崎原爆投下による犠牲者を慰霊する世界平和の日の集い「平和の鐘を鳴らそう」が開かれ、ISFから中西オフィサーが参加した。
  夕刻に始まった集いでは、中西オフィサーが「神道の祈り」として原爆犠牲者慰霊の祝詞を奏上したのに続き、主催者である中垣前住職の読経と太鼓・ダンスに合わせ、ユダヤ教、ヒンズー教、ゾロアスター教、カソリック、仏教、イスラム教、ジャイン教、プロテスタントなど、それぞれの宗教指導者が追悼の祈りを捧げた。広島市長、長崎市長からのメッセージも読み上げられ、最後に広島での被爆者であるウェスト森本富子さんが壇上で「ノーモア広島・ノーモア長崎」と訴えると、会場は総立ちになり、拍手がなり止まなかった。
   式典後は、参加者一同がそれぞれ鈴を持ち、宗教指導者を先頭にダグ・ハマーショルド広場まで行進。広島に原爆が投下されたのと同時刻にあたる午後7時15分に平和の鐘が鳴らされると、参加者一同が「ノーモア広島・ノーモア長崎」に加え、福島第一原発事故を踏まえて「ノーモア福島」と叫び、核兵器や原発の廃絶を訴えた。最後に原田真二さんの演奏もまじえ、一同でジョン・レノンの平和を訴える歌「イマジン」を合唱して、集いの幕がおろされた。

宗際・学際・人際

千 田 稔 氏
(奈良県立図書情報館館長・国際日本文化研究センター名誉教)

「古事記」の世界へ――
 古代人が肌で感じたカミの言葉にアプローチ

 日本古代の歴史と文化を多角的に論じ、多くの著書を発表し続けてきた。大学等を退官した現在は現職に専念し、県市民を交えた文化啓蒙に力を注ぐ。
昨年の奈良は「平城遷都1300年」に彩られた。各界あげての「1300年祭」を統括する記念事業協会で重責を担い、「一年間、多忙を極めました」
今、奈良県が中心となって「古事記編纂1300年」などを見越した「記紀・万葉プロジェクト」が始まっている。そこでも顧問への就任が決まっているが、自身の研究課題としても、歴史地理学・歴史文化論の立場から「古事記」へのアプローチを開始しようとしている。
   「古事記の神話へのアプローチとして、三つの視点を考えている」という。一つは、現代的にも関心の高い"自然"ということ。「自然を古代の人々は、果たしてどう見ていたのか。それは即、"カミ"のことだったろうと思うのです」
   古事記は、より日本をピュアに捉えていると推測している。「しかし神話は、戦前は"歴史"として強制され、戦後は戦争アレルギーのためにないがしろにされた。史実との混同は避けるべきだが、神話を文化的産物としてキチッと受け止めることは大事」と主張する。
   文化的認識の観点から、"自然"を神話の中に見るとは、どういうことか。「たとえば、ヤマトタケルは白鳥になった。現代人はそれをお伽話と片付けてしまうが、当時の人はもっと、鳥や植物や自然や、それにまつわるお話を、現実のものとして見ていたはず。鳥は天空への霊的なメッセンジャーだったかもしれないのです」
   古代人が神話に込めた気持ちというものがある。「現代人はかつての霊的な側面をもっとまじめに学んでもいい。古代人の心に近づくことで、我々は忘れた何ものかを発見できるかもしれない」と、自然やカミに寄り添っていた太古の思想に思いを馳せる。
「この国に、自然=ネイチャーという観念があったか、果たして疑問です。日本人にとって自然とは、生活と分け隔てることのない一体のもの、まさにカミだったのです」
   「だから、いまさら共存∞共生き≠烽ネいだろう、と。宗教化した神道からカミを、仏教から自然を考えると、却って見誤る危険もあるのでは」と釘を刺す。「無常観では捉えきれない日本人の倫理がある。単純ではあっても、肌で感じるカミの言葉があり、それを初めて言語化したのが古事記だったのではないか。そうした筋道からの読み込みをもくろんでいます」
    ちなみに、古事記への3つの視点。残る二つは、「日本神話の成立を語るには東アジア全体を見渡さねばならない」「大和・奈良に限らず、古事記の舞台となった"場所"を押さえる必要がある」
   「東日本大震災」から半年が経った。「今ほど人の生き方、心の問題が問われている時はない。あらためて、日本人のDNAに受け継がれた精神構造に注目したい」と、研究の志向を語っている。

神道展示館訪問 : 谷保天満宮 宝物殿

東日本最古の天満宮
中興・為守に由来の仏像や重文の「勅額」「狛犬」

 菅原道真公と菅原道武公を祭る。
 昌泰四年(901)、道真公が太宰府に左降となったとき、その第三子・道武公は当地に配流させられた。やがて父君薨去の報を受けた道武公は、思慕の情からその尊容をきざみ祀った。これが当天満宮の起こりである。「関左第一の天満宮」といわれるように、数多い「天神さま」のうちでも長い歴史をもつ古社だ。もと東方約2キロのところに鎮座したが、養和元年(1181年)、現地に遷座された。
 本・拝殿に向かい左手に社務所の建物があり、その二階に宝物殿が設けられている。平成14年、「道真公千百年式年大祭」記念事業の一つとして、所蔵する多くの文化財からその一部を展示するために創られた。
 入って左面には「津戸三郎為守コーナー」がある。為守は道真公の系譜につながる鎌倉武士で、多摩郡の当地域を本貫としていた。前記の現社地への遷座を完遂したのも為守で、同天満宮「中興之祖」といわれる。武者であるが法然上人に帰依し、熱心な念仏者としても知られた。かつて天満宮に隣接して別当寺、梅香山安楽寺があり、為守はその整備にも意を注いだ。
 そうした背景から「為守コーナー」には、阿弥陀如来坐像や十一面観音像、安楽寺の扁額「天衝」なども展示されている。
 後宇多天皇勅額「天満宮」(鎌倉時代)、木造・漆箔・玉眼「狛犬一対」(同)はともに国指定重文。勅額は書家として名高い藤原(世尊寺)経朝の筆による。「狛犬」は穏やかながらも動きと重量感がある。ほかにも天神像や書の掛け軸、伝・菅公御染筆「法華経」なども陳列されている。
   『江戸名所図会』の「谷保天神社」図が掲げられ、「……霊水あり」とある。天満宮付近には今でも名水「常磐の清水」が湧いているのである。
    
▽開館=日曜・祝日の11時から15時
▽無料
▽東京都国立市谷保5209
▽電話=042(576)5123

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『ヤマト王権幻視行』熊野・大和・伊勢   桐村英一郎
   「第二の人生は、生まれ育った東京を離れ、古代史に挑戦しよう」。新聞社を定年退職する前から、そう心に決めていた。この本は、それを実行し、奈良県明日香村に居を構えて書いた3冊目の歴史物語である。
 主役は神日本磐余彦(神武天皇)と高倉下。テーマはヤマト王権創始者たちの宇宙観・世界観の転換だ。私はそれを「海」から「天」への転換と名付けた。
 海人族と思われる神武らは、水平線の彼方に理想郷・常世を想う「水平的」な世界観をもっていた。熊野に上陸した直後、危機に直面した神武を助けたのは、大陸に端を発する「垂直的」な世界観をもつ物部一族の高倉下だった。
 神武は帰順した高倉下から、刀剣・e霊に加えて、「水平から垂直へ」という思考の枠組み転換のヒントをもらう。それは海から内陸に入った彼らにとってやむを得ない選択だったが、支配の論理としても都合がよかった。最高神が天上に居て、地上は大王のもとで人びとが暮らし、地下には暗い根の国、黄泉の国がある、という構造だからである。
 ヤマト王権が三輪山の麓で地歩を固めるにつれて、「垂直的世界観」は形を整えてゆく。高天原や天照大神は、物部氏の世界観より自分たちの世界観が優越することを示すためにつくりだされた観念であろう。天武王朝で編纂された『古事記』や『日本書紀』は、「海」から「天」への転換の完成を物語る文書だった。
 だが、大王から天皇へと変わっても「血」が受け継いだ「海へのあこがれ」は消えない。天照を大和の朝廷からわざわざ伊勢の地に遷したのは、「海がみたい」という想いを最高神に託し、「海から来て海に帰る」という自分たちの叙事詩をまとめるためだった。
 とまあ、こんなストーリーである。
 現役時代、私は主に経済畑を歩いた。古代史の門外漢だから、空想を交えた物語が書けたのかもしれない。
 古代史の泰斗、上田正昭先生の「新聞記者らしくルポを大切にしなさい」という助言を守って、奈良、三重、和歌山県のほか、新潟県(彌彦神社)、島根県(出雲)、長崎県(対馬)、宮崎県(高千穂)などを駆け巡った。後に先生から「基本的な考え方には賛成で、各地での見聞を大事にした点を高く評価したい」との言葉をいただいたときはうれしかった。
 いま私は三重県熊野市に住んでいる。この本の取材で足しげく熊野に通ううち、その魅力に取りつかれ、昨年秋に転居した。
 熊野には大岩や滝など「神社以前」の祭祀を偲ばせる場所が少なくない。熊野三山(本宮・速玉・那智大社)も奥が深い。勉強や挑戦の目標はたくさんある。

▽255頁、2800円+税▽方丈堂出版=(075)572―7508

桐村英一郎(きりむら・えいいちろう)
1944年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒。朝日新聞社入社後、ロンドン駐在、大阪・東京本社経済部長、論説副主幹などを歴任。定年後は神戸大学客員教授を五年間勤めた。「もうひとつの明日香」、「大和の鎮魂歌」、「昭和経済60年」(共著)などがある。

神社界あれこれ

西舘岩手県神社庁長が震災報告 宗援連
    宗教者や学者らが宗派を超えて被災者支援の有効なあり方を探る「宗教者災害支援連絡会(宗援連)」(会長=島薗進東京大学教授)。その第4回情報交換会が7月24日、東京・本郷の東京大学仏教青年会ホールで開かれた。東日本大震災の被災状況や救援活動の実際について、宗教各派の担当者らが報告を行なった。うち、岩手県神社庁長の西舘勲氏(荒神社宮司)は、被災者の心のあり方や感情に神職がどう応じていくか、苦悩の日々が続くと話した。宗援連の次回情報交換会は震災から丸半年の9月11日、同会場で慰霊の式とともに開催。

なでしこジャパン団長 熊野三山に優勝報告
   サッカーの女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会を制した日本代表「なでしこジャパン」の団長を務めた上田栄治日本サッカー協会女子委員長が7月27日、28日の両日、優勝報告のために空路、紀南入りし、熊野三山に優勝報告(正式参拝)を行なった。
   日本サッカー協会のシンボルマークは熊野三山の祭神として知られる「八咫烏」。日本サッカー協会はこの「八咫烏」をシンボルマークにしていることから、1998年に男子日本代表がW杯に初出場して以来、協会関係者の熊野三山参拝は恒例になっており、上田委員長は今回も大会前の5月下旬、必勝祈願のために熊野三山を訪れている。
   ちなみに「八咫烏」をシンボルマークにしたのは、日本に初めて近代サッカーを紹介した中村覚之助氏が熊野那智大社の地元・那智勝浦町出身ということで、中村氏に敬意を表して「八咫烏」をデザイン化したもの。7月27日には新宮市の熊野速玉大社、そして那智勝浦町の熊野那智大社と青岸渡寺へ。翌28日には田辺市の熊野本宮大社を訪れ、優勝を報告した。参拝後、同大社の九鬼家隆宮司は「多くの人に感動を与えてくれた。ありがとうという言葉しかない」と偉業を讃えたのに対し、上田氏は「W杯には八咫烏のお守りを持って行って戦った。アテネ五輪の予選からご利益があるのを感じていた。ロンドン五輪でも、もう一度優勝に挑戦する」と決意を語っていた。

新刊紹介

『絆 いま、生きるあなたへ』  山折哲雄 著
 千年に一度ともいわれるこのほどの大震災。絶望を抱える人々の姿の中には、心に悲しみや怒りを秘めながらも、ある種の覚悟と、穏やかさと、そして立ち直りへの決意が見えていた。
 ときに西欧とはまったく際立つこの対照性。はたして、日本人のこの態度、心の持ち様における特有さはどこから来るのか。
   著者は日本人の自然観や死生観、そして日本の無常と普遍について、日々の観察と思索から淡々と綴っていく。そして、我々はこれから、どこに寄り添って生きていくのか。そのヒントを示唆していく。
1365円。ポプラ社=電話03(3357)2212=刊。

『伊勢神道思想の形成』 小野善一郎 著
   著者が伊勢神道の眼目と捉える心神思想。それに沿った清浄の本姿に復するため、執り行なわれている伊勢流祓。そうした信仰に基づく神宮の理念や意識に光を当て、分析を加えることで、『造伊勢二所太神宮宝基本記(宝基本記)』の成立などについて考察を進める。
   『宝基本記』の託宣には「人間の本性は神そのものである」との内容があるという。そして、『皇太神宮儀式帳(儀式帳)』の「神嘗祭」にある「天照大御神の神教え」に則って祓は執行されるともいう。ここから伺える神髄こそは、神宮祠官が一貫して伝承してきた祓えと祭りなのだという。
   今、「大震災」による国難にあって、秩序回復と国家安寧の道、国民が心に希望の灯を灯し続けるよすがも、伊勢の思想にあると著者は考える。
  非売品だが、日本文化興隆財団=電話03(5775)1145=に申し込むと、頒布価1500円で入手できる。

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熊野の森
社叢学会員・沖縄民俗学会員 木村 甫
   山頂に登りつめるとブナの林があった。おそらく本州の南限かもしれない。暖帯域の南紀のこの山に東北の山を彩るブナの林があるのは不思議なくらいだ。この熊野の盟主大塔山からは山々が深い森を纏いながら重なる波のようにどこまでも続いているのが遠望でき、以前訪ね歩いた那智青岸渡寺から本宮への熊野古道大雲取小雲取越えもあのあたりかと懐かしかった。
   ここまでくるにはずいぶんと時間がかかったものだ。前の年の暮れにやはり大塔山を目指したが、長いアプローチに阻まれ時間切れになってしまって、山頂には行けずじまいに終わった。しかし、弘法杉までの大塔川沿いの照葉樹林を二回に渡って十分に堪能できたという怪我の功名的経験ができたのも、今から思うと良かったのかもしれない。
  大塔山付近の林相は気候的な垂直分布を示しながら、常緑広葉樹林帯(照葉樹林帯)と落葉広葉樹林帯が複雑に絡み合った分布状態をしていて、複雑でおもしろい。この熊野の奥地ではスギやヒノキの植林の間を縫って自然林がいまだ分布していて森林観察にはなかなか良い所だ。とりわけ全国でも少なくなった照葉樹林を見るには貴重なところのようだ。
   現存植生図を見てみると熊野は圧倒的に植林地帯であり、昔からの重要な林業の地域だと分かる。しかし、自然植生を拾ってみると標高の高いところはブナクラス域自然植生が残っており、大塔山はその南限あたりだ。標高が低くなるとヤブツバキクラス域自然植生や沿岸の同域代償植生(二次林)となり、カシやシイの照葉樹林帯となる。照葉樹のなかでも観察したところカシ類は多く、シラカシ、ウラジロガシ、アラカシ、アカガシ、ウバメガシ、熊野本宮や古座川の祓いの宮の神木になっているイチイガシ、ツクバネガシなどが分布している。これらは社叢といわれる鎮守の森に残っている場合が多い。
   熊野市のイザナミ神の墓所と伝えられる花の窟神社には、ヤブツバキ、カゴノキ、クスノキ、タブノキなどの照葉樹に混じってウバメガシの大木が何本も神域を守るように生育している。ウバメガシは備長炭の原木となるので細い内に伐採され、なかなか太い木は残らないという。熊野の炭焼きのことは、私を熊野に目を向けさせてくれた宇江敏勝氏の「山びとの記」に詳しいが熊野各地でかっては盛んに行われていた。そんなウバメガシ林を社叢として残しているのが古座神社である。山肌に特徴ある小さな葉をいっぱいつけた大きなウバメガシが何本もわっと生えているのを観るのは、古代の熊野の森を観るようでしばし見上げていたものだ。
   神域にウバメガシというパターンが琉球列島のいくつかの御嶽(ウタキ)を思い出させた。沖縄本島の北、伊平屋島のマージャ御嶽の拝所にも聖木クバ(ビロウ)の上層木としてウバメガシの大木があったし、隣に位置している伊是名島のアハラ御嶽では、周りを矮小化したウバメガシが取り巻いていた。おそらくあのあたりがウバメガシの南限であろうと思われる。ウバメガシが熊野信仰と御嶽(ウタキ)信仰の神域聖域に同じように生育している。
   確かに熊野と琉球は何らかの関係があるのかもしれない。黒潮の流れが両地域を結んでいるのだろうか。補陀洛渡海した日秀上人が琉球に流れ着き、仏教を広めたということもあるし、補陀洛とニライカナイは乱暴に想像すれば共通したものがうかがえなくもない。熊野大辺路を辿る付近には矢倉神社をはじめとした「社の無い神社」が広く分布しているが、その中でも樹木や森を祀ったと思われる神社は数多くあり、その醸し出す雰囲気は御嶽によく似ているのだ。御嶽にも御嶽林があり、腰当森(クサテモイ)といって集落を守っているといわれている。古座川の峯集落の矢倉神社は尾根の中腹に石の祭壇のみがあり、周りを十本もの照葉樹のスダジイの巨木が取り巻いていて、その南下に家々が展開している。遠くから集落を見るとシイの森に守られているように見えるのだ。熊野と琉球は暖帯域と亜熱帯域の違いはあるが、植生的にはヤブツバキクラス域に属していて、森を構成する樹種は基本的には照葉樹林である。
   伏拝王子から旧社地大斎原を遠くに拝すると、林立する大杉の黒い森にたゆたう幻の大気を感じたし、霧に霞む玉置神社の社殿は修験者達のような大杉に囲まれて、安寧に鎮もっているように思えた。これらの大杉達は植樹されたものと思われるが、昔から熊野にスギやヒノキを植え続けた先人達の足跡が大斎原や玉置神社の今につながっているのだと思う。熊野は自然植生の森のおもしろさだけでなく「植林」という自然を基盤とした人々の営みが営々と続けられたところでもある。暖かく降雨量の多い熊野はスギなどの生育に適している。豊かな水量を誇った熊野川ではかっては伐採した木材を筏に組み、新宮まで流していて、「筏師」という専任の仕事師を産んだほどであるのだ。熊野の林業は昔から大径木の木材を産し、伐期は八十年だったと聞いている。またその反面、丸太類の生産もあったりして、林業技術の進んだところなのである。今は集成材や外国材に押されていて、採算は合わないといいながらせっせと山仕事に入っている人は多い。自然林地や植林地、そこで働く人々をも包括して「熊野の森」なのであろう。熊野はやはり「木の国」なのである。
   熊野信仰というと、神道仏教修験道が習合した三山に代表されるが、本来は熊野の全域に広がる磐坐や水、樹木や森を祀った村々の小さな神社に支えられていた体系ではなかったか。明治期に合祀の嵐が吹き荒れて、南方熊楠の奮闘にもかかわらず、多くの小さな自然信仰の神社は失われたが、まだまだひっそりと数多く残っていて、それらに対する畏敬の念はそこに暮らす人々の中にしっかりと息づいているようだ。
熊野信仰の精神的背景には熊野の深い森が人々の心の中にしんしんと蹲っているに違いない。