神道国際学会会報:神道フォーラム掲載
マイ・ブック・レビュー : 『沖縄の神社』 加治順人

    今から10年ほど前、神職を目指すべく伊勢の皇學館大學神道学専攻科で学びながら、生活費の足しにと駅前のスーパーで食品積み出しのアルバイトをしていたときのこと。同じフロアで働いている年配の女性が私に話しかけてきた。
「貴方は沖縄から来ているそうですが、沖縄にも神社やお寺があるの。」
    その言葉に愕然としながらも、「まだまだ沖縄に対する本土(沖縄から見た北海道、本州、四国、九州)の方々の認識はその程度なのか。」と改めて思った。
    周知のように沖縄には15世紀から19世紀にかけて約400年の間、中国を宗主国とする琉球王国が存在していた。また王朝解体後は、日本の一県として本土に組み込まれ、さらに沖縄戦以降30年近く米軍統治を受けてきた。今でこそ沖縄ブームと呼ばれ年間500万人以上の観光客が訪れ、様々な健康食品や温暖な自然環境がマスコミ等で取り上げられ、沖縄に対する理解が深まっているが、つい一昔までは「沖縄の人は皆英語が話せるらしい。」「お箸が使えないようだ。」など、今では笑い話になるようなことも平気で語られていた。
    そのような本土とは異なる歴史、社会環境のもとで、沖縄に神社仏閣がないと思われるのも仕方のないことかもしれない。
    拙著は上記のような歴史環境の中で、沖縄の神社がどのようにして起こり、またどのような変遷を経て現在の姿になったのかを主眼にまとめてみた。
    沖縄の神社は、14世紀から十五世紀頃、本土から琉球に渡ってきた僧侶や商人らの手によって“外来の強いカミ”として伝えられたのが始まりとされる。それが国王や王府役人等によって信仰され、古くから信仰されてきた聖域である「御嶽」に社殿が建立され、王府の予算によって維持されていた。そのため沖縄の神社は、“国家鎮護”のための施設という側面が強く、一般民衆の信仰は薄かったと考えられている。
    琉球王国解体後、王府の管理ではなくなった沖縄の神社は、官幣社となった波上宮や県社として新たに建立された沖縄神社、戦没者を祀る護国神社を除くほとんどの神社は荒廃し、祭典どころか社殿さえも崩壊寸前であった。さらに沖縄戦によって、ほぼすべての神社が戦火によって焼失し、その後の米軍統治のもと再建はおろか、法人格さえ得られない状態が続いた。
    このように王府解体以降、逆境ともいえる歴史、社会情勢のもと、現在王朝時代から信仰を集める波上宮、普天間宮、沖宮のほか、戦没者慰霊の象徴として護国神社が再建され、それぞれ多くの参拝者で賑わっている。しかし、近代以降設立された県社である沖縄神社、郷社であった世持神社など、現在も境内地はもとより社殿さえも再建されていない神社が存在するのも事実である。
    そこで拙著では、戦後再建された神社と再建できずに現在も境内地を借りひっそりとたたずむ神社とでは、何が異なるのかを分析してみた。
    そこから見出せた答えは、当然のようだが「信仰」の有無が大きく関係しているということだった。
    現在日本には八万社以上の神社が鎮座していると言われている。しかし、そのほとんどの社では神主が常駐せず、地域の方々が維持管理し祭典奉仕を手伝っている。今後、伝統的な「信仰」というものが薄れ、地域の崇敬者がいなくなったとき、それらの地域の神社がどのような趨勢を辿っていくのか、また「信仰」を守っていくことの大切さを拙著によって些少ながらも理解いただけたら幸甚に思う。

加治順人(カジ・ヨリヒト)
1964年11月沖縄県那覇市生まれ。
大東文化大学、経済学部経済学科卒業、皇學館大學神道学専攻科修了、沖縄国際大学大学院地域文化研究科修了(社会学修士)。株式会社沖縄銀行入行、平成7年2月退社。
現職=宗教法人沖縄県護国神社権祢宜、沖縄国際大学社会文化学部非常勤講師(「沖縄の宗教」担当)、 沖縄国際大学南島文化研究所特別研究員、南風原カルチャーセンター講師
所属学会=沖縄民俗学会、南島地域文化研究会
論文=「沖縄の神社と神職に関する一考察」1999年3月、「戦前の沖縄における戦没者慰霊祭祀の受容とその社会的影響に関する一考察」2004年5月。
著書(単著)=『沖縄の神社』 2000年 ひるぎ社
 



Copyright(C) 2005 ISF all rights reserved
当ウェブサイト内の文章および画像の無断使用・転載を禁止します。