神道国際学会会報:神道フォーラム掲載
** 新春対談 **

薗田稔 山折哲雄 

今に問う 神仏の世界

宗教の役割――現在そして未来に向けた可能性

「信ずる宗教」と「感ずる宗教」

薗田
    今、宗教の在り方が問われています。そこで日本の場合ですが、伝統的な意味での神仏の観念が現在から未来にかけて、果たして一つの可能性を持ちうるのかどうか――。結局は命や生命観を問い直すことの中で、宗教の役割が問われている気がするのです。
    一方で、宗教に期待を持っていない、現代に宗教は無くていい、という論さえある。そこには「宗教」という言葉で何を指すかという問題もあろうかと思いますが、まずはその辺のところについて、どんなお考えをお持ちでしょうか。

山折

    言葉の定義はひとまず棚上げして、宗教には二つの大きな枠組みがあるような気がしています。
    一つは「信ずる宗教」。それに対してもう一つは「感ずる宗教」です。そういう枠組みで考えると日本人の信仰の世界が、またユダヤ・キリスト教世界における宗教の在り方がクリアになるのではないか。
     1995年、私は初めてイスラエルに行き、イエスが辿った伝道の道をバスで辿ってみました。ナザレからガリラヤ湖、そこからヨルダン川を下りエルサレムへ――。その旅で実感したことがある。つまり、どこまで行っても砂漠、砂漠。風土的な条件というものがやはり胸に来ました。――ああ、この地上には頼るべきものが一つも無い。とすれば人々は天上の彼方に唯一絶対の価値を、抽象的な神の存在を考えざるを得なかっただろう、と。風土的な背景というのは理屈を超えて非常に大きいなと胸に迫ってきました。
     ユダヤ、キリスト教の発生の原点はこの砂漠という風土と切り離せない。その中で神の存在を信ずるか信じないかという黄金律は、生きる上で非常に重要な基準となる。これは様々な宗教学説を超えての現地での実感なのです。
     そして日本に帰国しますと、緑滴る森林が広がっている。清冽な川が幾筋も流れている。山の幸あり、海の幸あり。自然そのものの中に様々な価値が多元的に散在している。多神教的な信仰が成立する風土的条件が、まさにこの日本列島にある。これもまた実感ですよね。
     森に、海に、川に、神々が存在するか、しないかの問題じゃない。その気配や声を感ずるかどうかの問題です。
     この「信ずる宗教」の体系と、「感ずる宗教」の体系を人類はある段階から、それぞれの地域で持っていた。
     ところが日本では明治以降、我々が使う宗教という言葉は、もっぱら「信ずる宗教」の体系の中で考え出された、あるいは西洋的な倫理学を学んだ上での固定観念に限定されてしまった。これを基準にすると、世俗化された社会における日本人の神々、或いは仏たちに対する感性は見えてこないと思いますね。見えていないから、「宗教なき時代」とか言われる。確かにユダヤ、キリスト教的な意味では宗教は無いかもしれないが、自ら無神論、無宗教だと言っている人々においてすら「感ずる宗教」は深々と彼らの身体に浸透している。それに気づいていない、感じていないということですよね。

薗田
    その点については宗教学者も、また一般の人々も再認識する必要があると思います。
     おっしゃったような「信ずる宗教」、あるいは「教団宗教」と私は言っているのですが、そのレベルで宗教を捉えてしまっている。明治以来、レリジョンという言葉を宗教と訳すことで固定した観念で規定すると、今、宗教はいらないという発想になるでしょうね。
     ですから、日本文化そのものに内在する宗教性に足場を持って考える必要があると思います。「宗教文化」の上に「教団宗教」が重層的に重なっている構造です。
 文化という言葉は英語ではカルチャー。それを語源的に辿れば大地に根ざしたもの、生活に密着したものにつながっていく。文化を営むなかで、おのずから見えない世界や、生前や死後の問題も当然、問う。その問い方の中に宗教性があるのであって、だからカルチャーは本来、宗教を内在せしめている。
     ところが、「教団宗教」というかたちで教理があり、それを信じるか信じないかを問うのは、これは文明のレベルだろうと思う。文明はシビライゼーション。シビルだから都市、都市すなわち文明ですね。風土や大地から一旦隔離された生活形態のなかで発想した宗教の在り方。それが、おっしゃった「信ずる宗教」、つまり教団として独立した宗教だと思うのです。
     古くは仏教もそうだったわけだが、普遍性を持ちながらも土着化する過程で、日本文化や風土の中にとけ込んだ。その在り方が、じつは神仏という日本の伝統の根っこにあるわけです。
     このような文化としての宗教性が、何か一つの大きな位置を主張しうる、あるいは改めて認識されるべき時代ではないかという気がするのです。生命観の問題にしろ、環境の問題にしろ――。

山折
     「信ずる宗教」が文明の中に成立したのにたいし、「感ずる宗教」はむしろ地域的、文化的な世界で展開した、――そのような二元論的な説明は確かに可能だとは思います。しかしユダヤ教やキリスト教、仏教などが発生する遙か以前の時代には、まさにこの天地万物の中に命があるという意識こそが、どの民族もが共有した普遍的な宗教意識、自然観ではなかったかと最近、思うようになったのですよ。
     そのことについてですが――。京都に住んでいるので、寺社にはよくお参りします。そこで多くの拝観者を見ていて、老若男女を問わず、人の流れが最近明らかに変わってきたなという感じがしています。昔はお堂に入って本尊を前に跪いたり拝んだりという人が結構いた。最近は多くの人が立ち止まらず、せいぜい解説板をざっと読んで通り過ぎていく。
     ところが境内の庭に出たとたん、人の流れが止まるのですよ。座ったり佇んだり、非常に穏和で平安な表情になって庭の奥を見ている。しかも、ただ漫然と見ているのでないことが分かります。
     「伽藍の中に仏なし」などと言いますが、庭の自然の奥にこそ仏や、名もなき神々のイメージを重ねながら神仏の気配を感じている。更に言えば、先祖の姿を見ているのかもしれない。そういうものの全体を包含したものが日本の自然なのかもしれない。
     この点は伽藍仏教や教義体系の衰えとも関係しているでしょうし、また自然宗教たる神道的世界の再評価という問題も出てくるかもしれません。でも本当はそんなものではないのではないか。それこそが本来の、自然の中に命ありという遙か昔からの信仰というか、普遍的な宗教意識であるのもしれない。それが現代人の心の中に次第に甦り始めた兆候なのではないか。
     だから私は、成立宗教が普遍宗教だと定義づけて、その土俵の上で考えている宗教学者に、少し異論を唱えたくなるわけですよ。
     そして、人類史的に見れば、この根本的な自然観や感覚こそが、パレスチナの問題や一神教的な世界が行き詰まった段階で、改めて見直されなければならない――、これしかないだろうと思うのです。

薗田
     なるほど。つい学問的に文化的な捉え方をしてしまいますが、結局、地球大の人類普遍のものとしてある宗教性ということですね。しかも人間だけではなく万物が、一木一草すべてが生きている世界として人類全体が持っていた宗教観念の出発点とも言えそうです。
     ただそれは、人間が文化を持った途端に、同時に生まれたものでもあると思うのです。地球上に生命現象はもちろんあるわけですが、それを捉えたのは人間ですよね。自分は生きている、そして死ぬ。それはどういうことか。そういう原点が普遍のものとして、人類文化が始まって以来の発想としてある。
     ただ、当然出てくる宗教性が、たまたま風土の在り方によって色んな形を取るということでしょうか。日本の場合は森林列島ですから、豊かな自然のなかに捉えたということでしょうね。

山折
     そうですね。まあ西洋の学者は未開段階の宗教だ、などと言いそうですが。むしろそれこそが今日の段階では普遍的なものとして改めて追求されねばならない状況にあるわけですから。
     その観点でいえば、おっしゃっている命の問題、生命観の問題に触れざるを得ない。
     例えば、少年の凶悪犯罪、肉親殺しが不気味な勢いで増大しています。こういう時に「殺すな」という黄金律をどう考えるのか。正面から「殺すな」と、教育の現場も家庭も誰も言わなくなっている。これは一体、どうしてなのだろうか。
     「殺すな、盗むな、嘘を言うな」。これは時代をこえた黄金律でした。「モーゼの十戒」、スッタニパータの「五戒」、全ての宗教が絶対の定言命令として言い続けてきた。
     ところが、それを裏切り続けてきたのが人間の偽らざる歴史です。「万物生命教」たる意識のなかに生きたはずの人間が、やはり日常的に生物を殺して命を保ってきた。このジレンマをどう乗り越えていくのか。
     このように、命の問題をはじめ様々な問題に対し、正面から考えねばならないところに来ているのに、宗教の側がなんら答えることができない状況に追い込まれている。宗教者は自信を喪失し、宗教的言語は意味を持たなくなっている。結局、「殺すな」という代わりにいつの間にか「命を大切にしよう」というメッセージが言い逃れのように考え出されてきた……。

薗田
     生命観に関しては、こう考えるとどうだろうと思っているのです。つまり「物」の考え方と、「事」の考え方がある。「物」として捉えるのは客体化することですから、命も客体的に第三者になってしまう。物質文明はまさにこれです。命も実体で、死や死後の問題を置いていってしまう。
     しかし「事」の考えをすると「生きる事」ですから、確実に死ぬ事、生物を殺す事でもある。客体的にではなく、生きる営みの中で実感として生命や死ぬことを発想し、考え抜くことになるのではないか。
     「生きる事」として考えると、生まれて死ぬまでが命だという生命論を突破できると思う。自分勝手に生きりゃいいという発作的な考えを抜け出せる。生死の連鎖の中で生かされている命、生きる重みを感じることが出来るのではないでしょうか。
 かつての日本人は自然観、宗教感覚において「生きる事」に近い捉え方で生きていた。「二割しか宗教を信じていない」という相変わらずのマスコミによる宗教意識調査では捉えられない実体があるわけですよ。

山折
    この前のアメリカのハリケーンと、日本列島における新潟大地震の被災者の表情を、テレビの画面で見ていて、全然違うことに気がつく。ハリケーンの被災地では怒りと苦しみがその表情に露出している。新潟の被災者の場合は、他者が口出しできないほどの苦しみと悲しみに満たされているはずなのに、老若男女みな、その表情が穏やかなんですね。それぞれの文明が育んだ、まさに宗教心の違いがそこに出ていたと思ったのです。そういうことに触れるマスコミ報道は皆無でした。
    そういうことを考えていくと、日本の宗教の問題は、宗教社会学者や宗教心理学者、宗教人類学者などによって分析的に解体されてしまっているということが自然にみえてくる。交通整理ばかりの宗教学はもういりません(笑)。

薗田
    私も宗教学だから(笑)、アイデンティティを考えなきゃいけないのですが、私は基本的には現象学がないといけないと思うのですよ。エリアーデに繋がるような意味ではなく、表れたままを素直に扱う素朴な意味での現象学ですね。
     極端なところ、「宗教的には」なんて言わなくてもいい。例えば、命の表れるままを問題にする。人間的に問うことが宗教学本来の姿、つまり人間学だと思いますね。本来はね。
 人間が営むもの、それはすなわち自らの生き方の問題ですからね。第三者の問題じゃない。「人間学を基本にしないと宗教学はないよ」と、常々言っているのですが。

山折
 そうです。人間学ですよ。
 おっしゃる意味での現象学のレベルでいうと、今、日本人にとって最大の問題の一つは高齢化社会でしょ。「人生八十年」は、ゆっくりやってくる老・病・死への不安や恐怖をじっくり見詰めねばならない、そういう人生というものを浮上させている。いかに生きるか、いかに死ぬかということが大きな問題になってきた。
 宗教学がもし存在理由があるとすれば、そういうことを根元的に考える人間学にならなければならない。そこしかないと思うのですよ。
 昔は宗教学を置いている大学で、仏教そのもの、神道そのものの真髄を教える研究者がいたのです。仏教と神道をきちんと語ることができる研究者を養成することがこれはからますます必要になりますね。

(京都・祇園「白梅」にて)


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