神道国際学会会報:神道フォーラム掲載
日々雑感 :梅田善美理事長

   8月15日、J國神社に参拝した。中国のどこかで戦没したと聞く私の兄が祀られているので、毎年おまいりはしているが、ことしの参拝者の数は異常に多かったように思えた。大村益次郎の銅像あたりから数十列と連なり、拝殿前までたどりつくのに、優に1時間はかかるほどの長い人波がうねっていた。戦後60年の節目であることがその要因ではあっただろう。あわせて、中国や韓国などとの政治がらみで、「ヤスクニ」の名が話題にならない日がなかったから、戦争を知らない若者たちも、J國神社とはどんなところなのか、と関心を抱いたにちがいない。戦前派や戦中派の高齢な参拝者に混じって、そんな青少年たちも社頭に向かって並んでいた。私と妻は昇殿参拝したのだが、諸県の遺族会はじめ団体参拝者が、拝殿にあふれていた。その間には、閣僚や国会議員たちの本殿への参拝も行われ、その姿をおうマスコミたちや警備の人たちの多さも、例年以上のものだった。
   桜の木々のあいだから見える青く澄みわたる猛暑の空は、60年前のあの日とちょうど同じだった。
   私の通っていた中学は、当時としては、かなり勉強に熱心で、毎日の軍事教練や勤労奉仕のあいまには、敵性語とされていた英語もきちんと教えていた。焼夷弾による絨毯空襲が町を襲い、まわり一面焼け野原の中に我が中学校だけが消失をまぬがれていた。空襲の翌日は学年末の試験日だったが、もちろんそれどころではなく、学校に集まった私たちは被災者の救援活動や死体の整備に駆り出された。
   そしてあの日、8月15日が来た。重大放送は雑音がひどくて、とぎれとぎれにしか玉音が聞き取れなかった。それでも戦争が終わったことは、まわりの人々のすすり泣きや話の内容で理解できたが、そんななかで私は「これでちゃんとした勉強ができるようになるのかな」と考えていた。
   やがて間もなく、我が校が進駐軍の宿舎になり、アメリカ兵たちがやってきた。戦争中は通学列車の中で英語の教科書を開いていて、「非国民!」とののしられてぶん殴られたことがあったけれど、私たちは、その日から、アメリカ人と片言の英語で話すことができた。鬼畜米英と教えられていたが、将校たちは優しく、私のたどたどしい英語を辛抱強く聞いてくれ、意思はなんとか疎通できた。そのおかげで私は英語が好きになり、その時の体験がのちに私が国際コミュニケーションの道を志すもとになっている。
   古い統計だが、日本人は毎日、70万語に上る海外からの情報を輸入し、新聞や雑誌、テレビなどの媒体を通じて日常的に読み聞きしているが、反対に、海外に出ていく日本の情報は、およそ5万語にすぎないという。J國のことでも教科書問題でも、もっと日本は正確な情報を世界に向かって発信しなければ、この国は正しく理解されない。そんな思いを強くして、私は九段坂を下っていった。




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