神道フォーラム 第37号 平成23年1月15日刊行

中国で初のシンポ「神道と日本文化」

  尖閣諸島の領有権をめぐって日中関係がやヽ険悪となり、特に中国の国内に反日デモが頻発していた情勢のなかで、少し不安を感じつつも昨年の11月中旬に北京と天津を訪問し、無事に本学会のめざす学術交流の一端を果たすことができたことは幸いでした。
 いささか急な話でしたが、昨年の9月19、20日の日程で開催しました第3回の専攻研究論文発表会に参加された南開大学日本研究院の劉岳兵・準教授から中国社会科学院の日本研究所の正式な招聘状をいただき、11月13日に開催する「神道と日本文化」というシンポジウムに基調講演する一人として出席するよう依頼を受けたのでした。
 中国政府のシンクタンクでもある最高の学術研究機関の社会科学院で、初めて「日本神道」をテーマにする画期的な学術交流だとの劉先生の熱心なお勧めと本学会理事の王勇先生などのご助言もあって、急きょ当方の日程調整を済ませた上で前日に北京入りし、15日には天津の南開大学日本研究院を訪問して翌16日に帰国するという慌ただしい日程でした。
 当日のシンポジウムは、有名な天安門広場にほど近い旧北京城内にあって清朝時代に皇女が住まいしたという、広大な「和敬府」に建つ古風な洋館を占めた日本研究所の会議室を会場に終日開催されたのですが、これには私のほか、日本からは飯島一彦・独協大教授、佐藤真人・北九州市立大教授など若手の神道文化研究者4人が参加し、中国からは神道研究の先駆者である王守華・浙江大名誉教授や日本研究所長の李薇・教授をはじめ同所文化室主任の崔世廣・教授や先述の劉岳兵先生など、それこそ研究所スタッフ全員を含め北京大学から内モンゴル大学まで、全国各地の大学から総勢32人の日本学者たち、それに社会科学院に学ぶ大学院生10人も加わっての賑やかで活発な研究討議となった次第でした。
 王守華先生と共に基調講演を担当した私は、「神道と日本人の生命観」と題して、いわゆる「草木虫魚」など全生類や「山川国土」など有情・無情にも及ぶ万霊を神仏として鎮魂供養する日本の宗教文化を指摘して、広くインド以東のアジア全域で共有されてきたこの類いの生命倫理の伝統文化が、いまや世界的に喫緊の環境倫理に活かしうる基調理念と成りうるのでは、と論じたものでした。幸いに続いて講演された王先生も、「三輪神道の自然観と環境保全」をテーマに神社の社叢を中心にした環境保全の意義を強調して下さったのも有り難いことでした。
 その後の研究発表では、14人の参加者が予め提出した和文・中文こもごもの論文に沿ってさまざまな角度と領域から神道に関する研究を披露し合う形で、多彩な発表と質疑応答となりましたが、私の一括した印象では、特にこのような日本神道をめぐる多角的な関連研究が中国でも進んでいることに大変意を強くして嬉しく思ったことでした。
 なかでも会議の冒頭で挨拶された李薇所長が、「日本の社会や文化を知る上で神道の存在や働きの研究を欠くことができない」と述べられたり、会議全体を企画し主催された崔教授の冷静かつ肯定的な神道評価をはじめ、中国側の発表内容にかつての教条的イデオロギー的な神道批判が皆無であったことに強い印象を持ったのです。そのことは、今後本学会が中国学者との研究交流を深める上での貴重な判断材料ともなりましょう。
 残念ながら中国語に全く不案内な私を、今回の訪問で終始ご面倒をかけた劉先生の、これも特別のご配慮で帰途に天津の南開大学日本研究院へも招待を受けて、院長の李卓・教授(女性)や副院長の宋志勇・教授の温かい歓迎を受け、しかも劉先生が担当される大学院講座で二時間の講演をもさせていただいたことも有り難い経験でした。
 なお加えて、今後3年に及ぶ同院の顧問教授を拝命したことをご報告して結びといたします。

薗田会長、天津市・南開大学で講演

 薗田稔会長は、北京でのシンポジウム終了後、天津に移動。同市では、神道国際学会の基金提供により南開大学日本研究院に設置された「日本思想文化講座」で、学生・院生を前に講演した。以下は、日本研究院の劉岳兵准教授からの報告。
  11月15日、神道国際学会会長・薗田稔先生は、天津市の南開大学日本研究院を訪問、「日本の宗教文化と生命観」をテーマとして講演した。
  南開大学日本研究院には、2009年から神道国際学会の援助によって「日本思想文化講座」が設置されており、薗田会長の講演も本年度の該当講座の一環として開催された。
   受講者は日本研究院の先生と院生、それに日本語学科の学生と院生を併せて40人ほどであった。薗田会長は、現象学の視角で日本宗教文化の特質と生命観を分析して、深奥な理論を平易な言葉で解釈して説明し、その深厚な学殖の一角を受講者たちが親炙していた。
   質疑応答では、薗田会長は日本宗教文化と政治文化との関係などの質問について詳しく話された。
   講演の後、南開大学日本研究院から薗田会長に対する「南開大学日本研究院顧問教授」の致聘儀式が設けられた。薗田稔会長は李卓院長から聘書を受け、思いもかけぬ喜びをいただき、これからは南開大学日本研究院の一員として尽力していきたいと述べた。

本会理事長の梅田善美氏がご逝去

「偲ぶ会」を今月30日、学士会館で
   神道国際学会の設立当初から一貫して本会運営に尽力されてきた梅田善美理事長が昨年11月29日、逝去されました。享年77歳でした。ここに謹んでご冥福をお祈りいたします。通夜・告別式は近親者のみで済まされました。
 神道国際学会では、ご生前の遺徳を慕い、「偲ぶ会」を1月30日(日曜日)午後4時から同7時まで、東京都千代田区神田錦町3-28の学士会館で催したく存じます(会費五千円)。「偲ぶ会」へのお問い合わせは本会事務局までお願いいたします。

   梅田善美氏は昭和8年、北海道に生まれ、慶応義塾大学在学中から大本本部に奉仕し、同教団の国際活動に従事されました。その後、ハワイ・ホノルル市の日米経営科学研究所に留学。国際ビジネス・コースを修め、帰国後、貿易部長として商社に勤務されました。
   語学の才に恵まれ、世界エスペラント協会副会長や、学校法人川口学園(ビジネス専門学校)の専任教員(国際コミュニケーション担当)、有限会社国際文化工房の役員なども務め、世界各地で活躍されました。
   神道国際学会に関しては、設立賛同者の一人として発足準備の幹事を引き受け、平成6年の設立後は理事長として会の運営・実務に当たられてきました。海外でも積極的に活動し、それが認められて神道国際学会は国連NGOとして認可されています。また、欧米やアジア諸国で、神道に関する講演や大学での集中講義を数多くおこない、神道文化を海外に紹介する大きな役割を果たされました。

連載・神道DNA「蛍の光は四番まで」 三宅善信師

   明治から現在までの長きにわたって日本人のほとんどが唱える歌というのは、そう多くはない。それらのひとつに『蛍の光』がある。別れの歌として、卒業式の定番であるだけでなく。NHK紅白歌合戦のフィナーレや、多くの公共施設や商業施設では閉館間際にBGMとして流し、暗黙の内に客の退出を促す音楽にもなっている。
 『蛍の光』のメロディがスコットランド民謡の『オールド・ラング・サイン(Auld Lang Syne)』から取られたものであることは広く知られている。ただし、「本家」のスコットランドでは、この曲は、正月や誕生日や結婚披露宴といっためでたい席で歌われている点が日本とは異なるが…。
 明治期には、まだ優秀な日本人作曲家が少なかったので、尋常小学校で教える「唱歌」として、西洋の原曲に日本語の歌詞を付けた唱歌が数多く作られた。『仰げば尊し』、『蝶々』、『霞か雲か』、『故郷の空』、『埴生の宿』、『旅愁』などである。これらの多くは、「ヨナ(四七)抜き音階」と呼ばれるドレミ音階の内ファとシを抜いたもので、雅楽以来の伝統的な旋律(五音階)と共通するため、日本人には耳当たりが良く、歌謡曲が大量に作られた戦後になっても、『北国の春』、『夢追い酒』、『上を向いて歩こう』、『木綿のハンカチーフ』、『昴』など、ジャンルを問わず多くのヒット曲が「ヨナ抜き音階」で作曲された。
 話を『蛍の光』に戻そう。この歌が尋常小学校の唱歌として文部省の『小學唱歌集初編』に掲載されたのは、1881年(明治14年)のことである。私は、小学校の卒業式の折、この歌の冒頭の部分「蛍の光、窓の雪…」に疑問を持った。「いったい季節はいつやねん?」と…。蛍は夏、雪は冬、卒業式は春やでぇ…。しかし、それはすぐに『蛍雪の功』という東晋時代(三世紀)の車胤と孫康という苦学生が貧困にもかかわらず夜遅くまで勉学に励んで、ついには高級官僚に出世したという故事に基づくものだと知った。「ボクだって蛍光灯の下で勉強しているけれど」という思いと共に…。
 卒業式では、通常、この歌は二番までしか唱われない。つまり、一番「蛍の光窓の雪、書読む月日重ねつつ、何時しか年もすぎの戸を、開けてぞ今朝は別れ行く」と、二番「止まるも行くも限りとて、互いに思う千萬の、心の端を一言に、幸くと許り歌うなり」の部分である。完璧な七五調の歌詞なので、「ヨナ抜き音階」と相まって日本人の感性には直接響く名曲である。
 ところが、日本語は一音節一文字なので、楽譜カードには通常、それぞれの音譜(♪)ひとつに一文字対応する形で、全部ひらがなで歌詞が書かれているため、意味が解りにくいことがよくある。中学生の私には、二番の末尾の「さきくとばかり、うとうなり」の部分の意味がよく掴めなかった。そこで、漢字かな交じり文による『蛍の光』の歌詞を調べてビックリした。
 なんと、この曲には四番まで歌詞が付けられていたのである。すなわち、三番の「筑紫の極み陸の奥、海山遠く隔つとも、その真心は隔てなく、ひとつに尽くせ国のため」と、四番の「千島の奥も沖縄も、八洲の内の護りなり、至らん国に勲しく、努めよわが背つつがなく」という部分である。確かに、この歌詞なら、海軍兵学校の卒業式や、士官の艦艇からの離任式の際に演奏するにはピッタリの曲であるが、実際には、海軍だけでなく小学校や中学校の卒業式でも『蛍の光』は盛んに唱われた。
 注意していただきたいのは、この歌が文部省の『小學唱歌集初編』に掲載された1881年(明治14年)という年代である。1889年(明治22年)の大日本帝国憲法の発布や、その翌年の帝国議会の開設に先立つこと8・9年という近代国民国家が始まったばかりの段階で、すでに「千島の奥も沖縄も八洲(=日本)の内」として社会的に認知されていたのである。
 それから130年が経過した現在、国後島にロシアの大統領が来ても、尖閣諸島で中国船が傍若無人の振る舞いをしても、ハッキリと相手国に対抗し得ない現在の日本政府のあり方には、疑問を持っている国民も多いであろう。中華人民共和国やロシア連邦が台頭するよりもずっと以前から千島の奥も沖縄も日本だったのである。まずは、卒業式の際には、『蛍の光』を四番まで歌う国民運動を始めるべきである。
 蛇足であるが、朝鮮王国(李王朝)が清帝国との宗属関係を脱した1897年(明治30年)から1910年(明治43年)の日韓併合時まで存在した大韓帝国(李王朝)の国歌である『愛国歌(エグッカ)』は、日本では『蛍の光』として知られた『オールド・ラング・サイン』の曲をそのまま援用しており、イ・スンマン(李承晩)大統領によって、韓国国歌がアン・イクテ(安益泰)作曲の現行曲に改められたのは、なんと1948年(昭和23年)まで時代が下がる。しかも、アン・イクテの没後50年を迎える2015年までは、国歌であるにもかかわらず「著作権料」を支払わなければならないという妙なことになっているのである。

ISF ニューヨーク便り

恒例の国際七五三行事 今年も盛況に
    ISFが毎年開催する国際七五三行事は、ニューヨーク市がジャパン・ソサエティで10月23日、24日の両日、ワシントンDC地区(以下、DC)では10月30日、31日の両日、青少年教育施設であるナショナル4Hセンターで開催された。
   NY市でおこなわれるのは本年11回目で、約120名の子どもを連れた家族が400名以上も参列、また4回目となるDCでも、子ども約50名を含む150名程の参列者があり、盛況だった。
   両地区ともISFが所有する着物が貸し出され、ボランティアの協力で、子どもたちは色とりどりの晴れ着を着て参列した。式典には中西オフィサーが斎主となり巫女2名と共に参進、会場に集まった子ども達の末永い幸せと健勝を祈って神前で祝詞を奏上した。その後、名前を呼ばれた子ども達が、ご両親に伴われて、二拝二拍手一拝の作法で祭壇にお参りすると巫女さんから千歳飴を手渡され、うれしそうに笑顔を振りまいていた。
   DC地区では地元の日本語新聞の取材があり、記者からの「何が印象的だったか」という質問に対し、子ども達からは「神前でお参りしたこと」という返事が返ってきた。
   祭典後は斎主、巫女と参加者が順番に壇上に上がって記念撮影を行ない、会場は終始賑やかだった。
   また、今年も参加費の一部(1,720ドル)がユニセフ(国連児童基金)に寄付され、ユニセフより「世界中の途上地域の恵まれない子供達の健康や生活の為に使わせて頂きます」との礼状が届いた。

マイアミ市で新嘗祭と七五三神事
 11月14日、フロリダ州マイアミ市のワトソン島にある市村日本庭園に中西オフィサーが招かれ、新嘗祭・七五三神事を奉仕した。
 同庭園は潟潟Rー創業者の市村清氏の寄贈により1961年に開園されたもので、現在ではアメリカ最南端のフロリダ州で日本文化を紹介する為に夏祭りや生け花展など様々な行事が行なわれている。今回は同庭園が日本の伝統儀礼を紹介するため、ISFに秋の神事である新嘗祭と七五三の奉仕を依頼してきたもの。
 当日、庭園には、書道の体験コーナーや生け花の展示、また剣玉やおはじき等の伝統的な玩具を紹介するブースなどが設けられていた。その中で、中西オフィサーが斎主となり、庭園内に設置された特設ブースで、50名を超える参列者を前に、午前中は新嘗祭、午後は七五三神事をそれぞれ奉仕した。参列者から代表で何名かのアメリカ人や日本人の家族が、玉串を奉奠し二拝二拍手一拝の作法で拝礼すると、全員がそれにならってお参りした。
 祭典後は、祭典の意味や供え物の説明を聴く人々が中西オフィサーを取り囲んだ。地元紙の新聞記者が取材のために参加し、翌日の紙面には大きく紹介された。

年末年始には恒例の一連の行事
   NYセンターでは、12月31日に英語による神道文化講座「日本の神社における祭事暦」を開催、その後例年通り大祓神事を斎行した。またオフィスと同じ地区にあるマンハッタンのタイムズ・スクエアでのカウントダウンが始まると、再びオフィスを開放して、正月三ヶ日は初詣客をお迎えした。
 NYセンターでの初詣は今や在住の日本人の恒例行事となっており、今年も多くの参拝客があった。

新役員決まる 本会臨時社員総会・理事会を開催

今年からの新役員決まる
本会臨時社員総会・理事会を開催
新理事長には大崎直忠氏
   平成22年12月末日の任期満了にともなう本会新役員(会長、理事長、常任理事、理事、監事)を決める臨時社員総会と臨時理事会が昨年12月17日、東京都江戸川区の本会事務所で開かれた。
   社員総会では冒頭、同総会の成立、および理事会への委任に関して、出席定数(委任状含む)を満たすことが確認された。議事では、理事・監事の選任を行ない、候補全員の就任を議決した。退任の意志を示していた理事の意向も承認した。
   続く理事会では、定款に基づく理事互選により三役(会長、理事長、常任理事)を選任した。
   梅田善美理事長の逝去により新理事長には大崎直忠常任理事が、新たな常任理事には茂木栄理事が就任する。任期満了のアラン・グラパール副会長、國弘正雄理事、菅野覚明理事、アレックス・カー理事は退任する。その他の役員は留任する。
新役員は次の通り(敬称略)。
▽会長=薗田稔 ▽理事長=大崎直忠 ▽常任理事=三宅善信、茂木栄 ▽理事=飯田清春、岩澤知子、栗本慎一郎、マーク・テーウェン、マイケル・パイ、ベルナール・フォール、ジョン・ブリーン、アレキサンダー・ベネット、ムケンゲシャイ・マタタ、王勇 ▽監事=玉川千里。
新役員の任期は平成23年1月1日から平成24年12月末日までの2年間。

ロシア語による神道エッセイ・コンテスト 2010年度の審査結果

 神道国際学会ロシア連邦事務所では今年も、ロシア語による神道エッセイ・コンテストを開催した。コンテストのテーマは、「神道とエコロジー」「富士信仰」「神という概念」の3点であった。
 応募したのはエカテリンブルグ市、モスクワ市、ノボシビルスク市の大学からの9人の学生・大学院生で、メシャリャコフ教授(審査委員長、ロシア国立人文大学の東洋文化・古典古代研究所)、シモノワ教授(モスクワ国立総合大学付属アジアアフリカ諸国大学日本史・文化学科主任)、ディアコノワ 博士(ロシア国立人文大学東洋文化・古典古代研究所)が審査にあたった。
 審査結果は以下のとおり。
1位.Ms. Batova Elena(バトワ・エレナ)(モスクワ市ロシア国立人文大学3年生)
  「『古事記』『日本書紀』にみる神がみのパンテオン」
2位.Ms. Saharova Alexandra(サハロワ・アレクサンドラ)(モスクワ市ロシア国立人文  大学3年生) 「歌枕の地名:神道の意味合いを含む事例について」
3位.Ms. Yazovskaya Olga (ヤゾフスカヤ・オリガ)(エカテリンブル市ウラル国立大学  哲学部博士課程)「天皇の神聖性」

 11月26日、ロシア連邦事務所はロシア国立人文大学でエッセイ・コンテストの授賞式を開催。授賞式には審査員、受賞者並びに研究所の所長であるスミルノフ教授を始め、東洋文化・古典古代研究所の教員、日本学者、日本史・日本文化を学んでいる学生たちが出席した。
 第一位、第二位、第三位を取った受賞者には賞状・賞金(1位=1000ドル、2位=500ドル、3位=300ドル)が贈られた。また、受賞者と授賞式に出席したコンテストの参加者は、昨春出版された『神道:日本民族の宗教』と『2004−2009年の受賞者のエッセイ集』がモロジャコーワ所長によってプレゼントされた。

新春対談「鎮守の森」をめぐる人権思想と生命倫理)

上田正昭(社叢学会理事長・京都大学名誉教授)
薗田稔(神道国際学会会長

人権・平和・環境問題……
自然と文化を包み込む「鎮守の森」が課題解決に貢献する

今年は国連の定める「国際森林年」。日本には、神への信仰を底流とした、「鎮守の森」と人々との深い絆がある。自然環境の保持・回復、人権の確立、世界平和の構築……。いま、人類が抱え込んだ難題は多い。「鎮守の森」「社叢」をめぐる日本人の生命観や思想から見出し得る、課題解決に向けた方途を語り合ってもらった。

偏見を超えた学問の国際交流が大事        薗田
禊や祓は中国や朝鮮でも行なわれていた      上田
薗田 上田先生は古代史──といっても日本だけでなく、中国や朝鮮との関係、つまりアジアを視野に入れて、古代文化を研究されてきました。国際的なかたちを重視されているわけですが、中国などへは随分と行っていらっしゃるそうですね。
上田 中国は32回ほどです。中国社会科学院の古代文明研究センターの学術顧問を引き受けたり、西安の国立西北大学の名誉教授であったり。
薗田 私ども神道国際学会も学術の国際交流を意図して、しかも神道だけでなく、日本の宗教文化というものが海外で正確に理解されるようにということで活動しております。中国と台湾、そして最近では韓国の研究者との関係も始まっている。複雑な政治状況はあっても、学問の世界では出来るだけ偏見のないかたちで研究交流ができればと考えているわけです。
その意味でも、先生からお話をうかがうのは意義あることだと思っております。
上田 神道といえば、とかく日本人のみの信仰と受け止められがちですが、禊や祓は、中国や朝鮮半島でも行なわれていた。そのことは『神道と東アジアの世界』(徳間書店)などでも論及したところですが、たとえば許愼の『説文解字』には祓について述べられています。また『後漢書』の礼儀志には三月上巳の禊のことが、『三国遺事』の『駕洛国記』には加耶の始祖首露が建武十八年(AD四二年)の三月、禊浴の日に亀首峰に降臨したということが記されている。
薗田 やはり偏見を超えて研究課題を深めることが大事だということになりますね。

「鎮守の森」は神と人と自然の接点
命の尊厳を自覚し、自然と共に幸せを構築する――
それが本当の人権    上田


薗田 国際的に、という点からいうと、今年は国連の定める「国際森林年」なんですね。そうなると、先生が中心になって立ち上げた社叢学会のこともお聞きしなければならない。私も副理事長をさせていただいていますが、そもそも、先生が社寺林の重要性にお気づきになった、その経緯も含めてお聞かせいただければと思うわけです。
上田 平成13年にこの会合を立ち上げようということで各方面に声をかけ、翌年の5月25日、京都の賀茂御祖神社、糺の森で発会式を行なったわけです。
 二十世紀の前半は、第一次・第二次世界大戦という名称が象徴するように、世界全体が戦争の渦に巻きこまれた。後半は民族対立や宗教を巡る紛争が続いて、まあ現在にも及んでいるのですが、私はやはり二十世紀は戦争の世紀だったと思うのです。
 もう一つ、地球の汚染が深刻になって、温暖化をはじめ世界全体が環境問題を抱えた時代でもありました。
 私は人権問題にも多年にわたって関わっていて、世界人権問題研究センターの理事長も務めているのですが、二十一世紀は「人権の文化が輝く世紀」にしなければならないと、つねづね主張しているのです。ヒューマンライツというと、とかく個人の権利ばかりに目がいきますが、本当の人権というものは、命の尊厳を自覚し、自然と共に人間の幸せを構築するものだと思うのです。だからこそ環境問題にも取り組んでいるわけですね。
   では、この課題について、日本が何によって貢献できるかといえば、社寺林など聖なる森林の保全と、その活用によって寄与しうると考えています。
 社叢学会も、地球全体の平和、環境問題、そして「人権の文化が輝く世紀」に貢献することを目指して立ち上げたわけです。鎮守の森の信仰こそ日本文化の伝統に根ざす、とくに神道のベースですね。
   ですから私は、神と人と自然のつながる接点は鎮守の森であると固く信じて、歴史的にもそのことを自分なりに研究してきたつもりです。

万物に神性、仏性をみるのが日本人   薗田
環境の問題と、人権の問題は、不離不即 上田

薗田 おっしゃった人権問題、そして環境問題ですが、それに取り組むとき、これから大事になるのは、生命観をどう捉えるかということだと私は思って、その考えを煮詰め始めているところなのです。
 1992年の6月にブラジルのリオデジャネイロで国連の環境会議があった。そのサイド・イベントとして、世界の精神的指導者会議というものが開かれたのです。じつは日本からは京大の総長をされた岡本道雄先生、大本教の出口京太郎先生、そして私が参加したのですが、当時はまだハッキリとした形ではなかったけれど、やはり環境問題、そして、人間だけではなく地上のさまざまな命も尊いのだというようなことが、ようやく議論にのぼった、そんな印象があったのです。
 それは非常に刺激的な会議だったのですが、そのとき私は、欧米の考える生命の問題と、我々のアジア的な生命の捉え方にズレがあるなという感覚を持ちました。
 それと3年前、京都で世界宗教者平和会議(WCRP)の第8回世界大会が開かれた。その大会テーマの中にadvancing shared securityという箇所があったのですが、日本委員会は
共に全ての命を守るために≠ニ訳した。これは名訳だと思いますね。共有する安全保障≠ネんて直訳ではカバーしきれないところを汲んでいる。しかしこれが国際委員会に回ると、全ての命≠ェ人間中心の命の問題へと引っ張られてしまう。
 ですから、東西の生命観の違いというものが私の中では、だんだん大きな研究課題になっているのです。
上田 たしかに人権問題の根本として、命の尊厳を自然の中で自覚する。そこが一番大事なところですね。
 1994年の第49回国連総会で、「人権教育のための国連10年」というのを採択し、行動計画を策定した。その中で初めて、
カルチャー・オブ・ヒューマンライツ≠ニいう言葉を使った。これは素晴らしい言葉です。人権を文化として捉える思想がやっと世界的にも出てきたわけですね。
 ところが人権問題をテーマに活動している人は環境問題に関心がない。人権は命の尊厳であり、命の問題はあらゆる命につながる環境の問題でもあるはずなのですが、人権の活動を進めている人が環境問題の国際会議には出てきません。
環境の問題と、人権の問題。この二つは全く不離不即の関係です。それなのに、とかく欧米の人権活動家がそこに注目しないというのは、やはり生命の捉え方の違いなのでしょうね。
薗田 漢語で生命と翻訳してしまうと、要するに第三者的な見方になるということでしょうね。客観的に生命現象として、事実として見る。生命科学などというように、物として冷静に追求するという極めて欧米的な見方です。
これを和語で命と言えば、それはつまり自分たちの命という主体的な意味になる。たんなる物ではなく、心あるものとして捉えている。すると、生きているときは勿論ですが、死んだ後のことも視野に入れねばならなくなってくる。少なくとも東アジアの生命観では、小さな命でも疎かにはしない。そして人間だけではなく、様々なものに命を見るという生命観です。
 ですから最近、私は仏性という言葉が気になっているのです。なぜ日本語ではホトケと言うのか。仏教ならブツはブツと訳せばいいものを、日本にくるとホトケです。ブツ本来の意味は覚者、つまり悟れる者なのに、日本では死ねばみんな、それこそ盗人でもホトケです。つまり日本的には、生前も死後も、そして万物も霊的な命を持っていて、仏になる可能性、仏性を持っていて、それをホトケ、つまり成仏する可能態をそう表現したと思ったりするのです。
 ただし成仏するには、習俗的にみれば縁者が供養する必要がある。神道的に言えば魂鎮めの祭りですね。すると、神になるわけですよね。鎌倉仏教の祖師たちは皆、盛んに万物仏性を説いた。そこまで徹底するのは、山川草木悉有仏性を徹底するのは、やはり日本ならではでしょう。
 たとえば福島県の西会津には虫供養というものが残っていて、駆除した害虫をお祭りして供養するという習俗がある。仏教行事としてやるのですが、万物に命があるという日本人古来の心があってこその行為ですよ。各大学の医学部では解剖で使った遺体を供養するといいますし、針供養や人形供養という習俗まであるわけですから。

おかげに感謝し、命のもったいなさを自然のなかで自覚する  上田
客体化された生命でなく、生かされている繋がりの命として捉える   薗田

上田 本居宣長は『古事記伝』で、鳥獣木草のたぐい、海山など、すぐれたる徳があって、可畏き物を迦微というと明言している。私は万有生命信仰と呼んでいるのですが、山川草木悉有仏性の実相は、日本にあってこそ、より本質的に実感できる。
 ですから最澄も明確に提言しています。全てのものに命の存在を認め、自然とともに、自然の中に人間の在り方を求めていく。それは日本の伝統的な信仰のベースにあるものですね。
 「延喜式」の祝詞では、「何々と宣る」という古式の祝詞と、「何々と白す」という新しいタイプの二通りがありますけど、古式の祝詞には願い事が一切ない。ただひたすら感謝する、おかげ信仰です。自然のおかげが前提にある。感謝の心、「おかげさま」が死語になって、自分一人で生きているように錯覚している人が多いですが、日本文化の基層にある思想や信仰は、二十一世紀に大きく貢献できる要素を持っていると思いますね。
薗田 そういう意味での命の捉え方をすると、食べ物として命をいただくというおかげもあるし、客体化された生命現象で発想することでは済まない宗教的な根本テーマというものが見えてくると思いますね。おかげで生かされているという繋がりの中で、自分たちの命の問題として生と死を捉える。そうした生命論というか、それはかつては寧ろ当たり前、自然だったはずなんですよね。
上田 繋がりの命という思想や信仰は、古代の宣命にしきりに出てくる「中今」、過去・現在・未来の中の現在としての中今の命の思想にもつながりますね。
 「日本人の自然観」という寺田寅彦先生の最後の論文に、私は学生時代、たいへん感銘を受けた。西欧の科学は自然と対決し克服することで進歩した。しかし日本の科学は自然と如何に調和するか、その経験を蓄積することで前進してきたと言っておられます。
 それと、気候変動枠組条約の京都議定書発効を記念した式典が2005年2月に京都であったとき、ケニアのワンガリ・マータイさんが日本語には「もったいない」という素晴らしい言葉があると発言して有名になりましたよね。そこで、私は「もったいない」がいつ頃から使われたか調べてみたのです。調べた限りで早い例は『宇治拾遺物語』でした。これが『太平記』になりますと、命がもったいない、というふうに出てくるのです。若武者が死んでいく、命のもったいなさよ、と。日本人は物を大切にするだけでなく、命の尊さ、命のもったいなさを自覚してきた。やはり人権問題の根本は、命の尊厳を自然の中で自覚する。これを欠落させてはいけないと思いますね。

根本的な生き方、命の問題を考えるとき、宗教は不可欠 薗田
鎮守の森は寄り合いの場、 そして民衆文化を育む場でもある 上田

薗田 生態系が豊かでないと、人間の命も生きられないわけですからね。平和も人権も、命が豊かである中のものでなければ意味がないじゃないですかと、宗教者平和会議などで私もしきりに言っております。最近の私は、もうアジア的な意味での生命主義ですよ。
 ところが困ったことに、単なる科学者とか、他領域の人たちは、ある種の霊性というか、スピリチュアルな命をいうと、つまり「それは宗教じゃないですか」と言うんですね。宗教は困るという雰囲気もあるのですよ。
とくに日本では、宗教と名が付くと敬遠しますね。宗教という言葉があまりにも狭く捉えられてしまっているのです。そうではなくて、宗教はまさにカルチャーであって、カルチャーに内在するのが宗教性なのですから、もっと根本的な生き方の問題だと捉えられるようにならないと、いつまで経っても命の問題をまともに議論できないなと残念に思っております。
   むしろ宗教なんて言葉を使わず、先ほど万有生命信仰というお話がありましたけれど、物質文明に対する生命文明という言い方でもしなればならないかなとも思います。精神文明でもいいのですが、「痩せたソクラテス」みたいで、豊かさに慣れた現代の人たちは振り返ってくれそうもありませんので。
   それにしても、日本の神道は森に鎮まるという在り方をずっと守ってきたわけですが、それを自覚しつつ、アレルギーを起こさせないで研究の対象にしたのは、それこそ上田先生が最初ではないですか?
上田 おほめの言葉をいただいて恐縮ですが、鎮守の森の研究などで南方熊楠賞をいただきました。
 南方が偉いのは、明治34年から始まった神社合併において、合併反対のために命がけで奮闘しました。合併は人民の融和を妨げる、自治機能を阻害する、と、反対意見を列挙して鋭く大きく論じ実践しました。
   鎮守の森は寄り合いの場所であり、自治の掟を定める場所であり、芸能を演じ饗宴する場でもある。日本の民衆文化を育む場です。勿論、自然を敬い、神と人とが交わる接点なのですが、同時にそこは自治の場でもある。そういう機能のあることを南方は見抜いていた。
   様々な事例に即して、鎮守の森が如何に大切であり、その存在と活用によって環境の保全に貢献できるかを、ますます明確にしなければと思っています。
薗田 確かに共同体の中心であるという役割も含めて打ち出さねばならないのだけれども、神社界というのは、教義という形で自覚するのが苦手なのです。それは、神道は宗教文化であって教団宗教ではないので、日本人にとってあまりにも当たり前の世界だったからです。それにしても、大切なところにみずから気が付いて、積極的に説くということが、神職からあまり出てこない。
 ただ、江戸時代、宣長より少し若い世代で、すでに気付いていた人が一人います。遠州一宮である小国神社の社家で、小国重年という人が、国学者として、神が森に鎮まるということを採り上げている。杉祭りと称して檜を植えることを始めたのですが、スサノオの植林神話から、神の為せる業の大事さを押さえているのです。
 この重年という人から私も何物かを教わった気がしましたが、今日は上田先生から、森の大切さも含めた貴重なお話をうかがうことができたと感謝しております。
〈終〉
(京都・祇園「白梅」にて)

上田正昭(うえだ・まさあき)=1927年生まれ。京都大学文学部卒業、京都大学教養部長、京大理文研センター長などを歴任。京都大学名誉教授、京大文学博士。大阪府立女子大学長を経て、現在、島根県立古代出雲歴史博物館名誉館長、高麗美術館長、姫路文学館長、中国社会科学院学術顧問、中国西北大学名誉教授、アジア史学会会長、社叢学会理事長、勲二等瑞宝章、韓国修交勲章。

薗田稔(そのだ・みのる)=神道国際学会会長、秩父神社宮司、京都大学名誉教授。

宗際・学際・人際: 李春子氏(神戸女子大学講師)

編纂作業の進む『東アジア鎮守の杜文化誌図鑑』
日韓台の「鎮守の杜」300ヵ所──
人々が寄せる思いや信仰の実態を報告・集成

   東アジアが共有する「鎮守の杜」信仰。今も実際に親しまれている各地の「鎮守の杜」を紹介することで、その信仰の豊かさを多くの人に再認識してもらおうという「図鑑」の編纂作業が進んでいる。
   『東アジア鎮守の杜文化誌図鑑(仮題)』。対象となる日本、韓国、台湾で、祭祀が行なわれ、あるいは日常的に信仰されている鎮守の杜、約300ヵ所を取り上げる。
それぞれの場所について、植生の実態のみならず、祭りのあり方、信仰の歴史、庶民の心情などに迫っている。「文化誌図鑑」と銘打つゆえんだ。
   写真や地図が添えられ、現地調査報告が盛り込まれる。日・韓・台の文化研究者、10数人が集まり、共同で作業に当たっている。
   3エリアとも作業は終盤に近づき、補足的な二次調査が進行中。日本語版は今年秋には発刊の予定だ。続いて順次、韓国語版、中国語版が刊行されることになっている。
   同図鑑の韓国エリアはもちろん、日本エリアをも担当しているのが李春子氏。同氏は「アジア鎮守の杜の再生実行委員会」の委員長も務めている。
   ヒメコバチによる大きな被害を受けた沖縄の象徴、デイゴの群生が立ち枯れのため伐採されていく──。樹齢を重ねた名木ながら、病虫害と人為で危機に瀕する台湾・台中県のクスノキ「澤民樟樹」(李登輝・元総統の命名)がある──。
   「杜の信仰の調査に行くのだけれども、消滅しそうな杜や木に、どうしても目がいってしまう。知らん振りして、やり過ごしてもいいけれど、動けば何とか救えそうという気が沸いてくると、やはり、そのままにはしておけない」。結局、保護と再生のために、住民や行政の間を奔走してしまうことになるらしい。
   あるエッセイで、本多静六の『大日本老樹』の一節を紹介している。「老樹を愛惜するのは老大人を愛惜するが如し……樹木は単に老樹の為にあらず、その因縁ある人の為に愛惜……」
   「人間が自然を破壊すれば、その負い目は将来、きっと残る。犠牲になった木や杜も寂しいけど、その犠牲に無頓着な人間は、もっと寂しい存在だと思うんです」
杜に敬虔の念を抱き、そして自然と共生して暮らしてきた祖先の心に立ち戻る。『鎮守の杜文化誌図鑑』が、その契機への一助になれば、と考えているという。

From Abroad:ランジャナ・ムコパディヤーヤ氏

(インド国デリー大学東アジア研究科准教授(日本学科)

宗教の国家や社会との関わりを探求
日本近現代の教団による社会貢献活動を調査

   日本の近現代における民衆と国家の関わりを、宗教運動の歴史から探求している。
国家と宗教の関係、神道と新宗教のせめぎ合い──その歴史的な流れを捉えつつ、とくに、宗教教団の社会活動の実態に迫ってきた。
   「宗教教団が社会活動に力を入れ始め、いわゆる社会性を持ったことで、教団は、ときには国家と関わったり、ときには離れたりするようになる。そういう興味深い現象が見えてきます」
   「仏教福祉」という言葉に象徴されるような、布教をひとまず度外視した宗教側の大衆への接近が、日本独特の近現代社会を作り上げた一つの要因になっていると見ている。
 
   第二次大戦後は、国による福祉政策が格段に進歩したが、教団による社会活動も衰えを見せていない。少なくとも、多くの団体が、国内外を問わずボランティア運動に熱心であることを標榜している。
   そうした活動の状況、事例の調査を蓄積しようと、様々な現場にも足を運んでいる。「宗教の社会貢献」という内外の研究者のネットワークがあり、滞日中はそこにも積極的に顔を出した。「広く日本とアジアの関係というものがあって、その中で宗教がどう関わっているのかにも関心を持っています」

   そもそも修士課程では社会学を専攻したが、もともと宗教学への興味も大きかったという。
   「宗教と国家の関係」をテーマに論文を提示し、やがて、インド国外のアジアの実態はどうなのかと新たな研究課題を持ち始めた折、文科省の奨学金制度による日本留学が実現した。東京大学で宗教学の島薗進氏から指導を受け、同大学の宗教学研究室で博士課程を過ごした。
   日本ということで当初は神道を軸に調査を進めたが、その後は、近世後期から近・現代への、大衆を巻き込んだあらゆる宗教のうねりを見据えている。
   「物と、知恵と、人材。これは、いわば社会的に貴重な資源≠ナす。そこに宗教者がどう関わり、今後、どう関わっていくのか。そのとき、非政府の人々が政府とどう関わり、物や人がどう動いていくのか。さらに研究を深めていきたいと思っています」

    東京大学大学院博士課程修了後は、5年間にわたり名古屋市立大学で教壇に立ち、日本文化・宗教を教えた。一昨年、母国に帰り、現職。

神社界あれこれ

火焚祭で鎌倉神楽
鶴岡八幡宮の丸山稲荷社

   鶴岡八幡宮の境内に鎮座する丸山稲荷社で昨年11月八日、火焚祭が執り行なわれた。講の氏子ら多数が参列し、五穀豊穣を感謝するとともに無病息災を祈った。
祭典に続き、恒例の鎌倉神楽(鎌倉市指定無形文化財)も行なわれ、素朴な笛や太鼓の音色に合わせて、神の降臨の場を清める「初能」、祓い招く「御幣招き」、生き物への施しの意を込めた「大散供」、さらには「弓祓い」、邪気を鎮める「剣舞」などが披露された。
   鎌倉神楽は古くより鶴岡八幡宮の神職に伝承されてきたもので、神職神楽だけあって祓い清めの神事の色彩の濃い演目が並ぶ。
   また、作物の吉凶を占う湯立(「掻き湯」など)も組み込まれていて、 この湯にかかると祓いになるともいい、湯釜に浸された草束が振り上げられると、参列者は飛び散る熱湯に歓声を上げていた。

投稿・読者からのお便り

社叢学会関東支部が新潟県・彌彦神社の社叢視察
    社叢学会関東支部は、偶数月の定例研究会のうち年に一度は一泊二日で現地研究会を開催。昨年は10月30〜31日の土日に新潟県の彌彦神社(大森利憲宮司)の社叢視察を行った。参加者は薗田稔先生など10名(男6名、女4名)。
   彌彦神社の所在地は西蒲原郡弥彦村の弥彦山・東山麓。弥彦山(標高638b)は南の弥彦山から北の多宝山の双耳峰山塊で、日本海と越後平野の屏風山でもある。神社はかつての越後国の一宮で、地元・全国の人々から「おやひこさま」と親しまれ、御祭神は天照大神の曾孫・天香山命(アメノカゴヤマノミコト)。命は神武天皇の詔を受けて紀州熊野からおもむかれ、この地の人々に稲作、漁業、製塩、酒造など農耕漁業の技を教えられた、と伝承されている。
   2 日目にロープウエーで奥宮(御神廟)が祀られる山頂に立つと前日の台風一過で、まさに360度の大パノラマ。西には目前の佐渡島から能登半島を眺望。北から東、南の全面には稲刈り跡の広大な越後平野を俯瞰する。現代越後の豊穣の農漁業等の伝承を彷彿とさせてくれる。2日間ともご案内の相馬正幸権禰宜のお話「弥彦山の朝は東面が朝日に輝き、夕は西かなたに落陽するという、仏教の西方浄土をも思わせる」にも頷ける。紅葉直前だったのが残念。
   お社は、明治45年に門前、温泉の街並みが大火に遭い、本殿・拝殿にも飛び火、消失した。現在のお社等は大正五年に、旧本殿地から現在地に移され、また本殿・拝殿は南向きから東向きに変えて再造営された(設計は明治神宮と同じ伊東忠太)。数年前には本殿・拝殿屋根の葺き替えも行われた。
   神社の神域は、平野部、境内から山頂に至る弥彦山一帯の243f。この社叢について、相馬権禰宜からパソコンを駆使して再建当時の写真、ランドサット衛星画像などにより詳しく説明を受け、約百年を経た深淵な社叢が理解できた。現在、社叢は神社の林務営繕課(太田敏文課長)が植樹等管理されている。
   印象に残ったのは、再建を機に、かつて境内の神職の家、植生も再構築されたこと。境内と門前道路の間に小川(御手洗川)を通し、境内にあった旧神職の家は道路外の門前側に配列設置して、防火家・堤とされた。また、門前側約100bには外側から珊瑚樹、ついで白樫、杉の三層の防火樹林帯とされた(約3b〜4b幅くらい)。無念だったのは、数年前に神社東側参道巨木の杉並木のかなりの本数が根元から伐採された切り株跡。理由は、隣接する競輪場施設等にとって老木故に倒木の危険がある、とのこと。参加者一同、憮然とする。
読者の皆さんにも彌彦神社参拝・弥彦山登拝をお薦め致します。
(芦田一夫)

わたしの院生生活
丁 潔 雲(中国浙江工商大学日本言語文化学院修士専攻)

    昨年9月から始まったわたしの院生生活が、知らず知らずのうちに、4ヶ月が経ってしまった。忙しくて充実した毎日だった。
    木曜日を除いて毎日授業があり、今学期は日本言語研究、中日関係史、日本文化研究、東アジア文化研究、英語などのコースがある。大学院の授業の進行は、学生の積極性・主導性を喚起させ、独自の意思をアピールするように仕向けることを主眼とし、演習・ゼミナールとの方式を採用。だから、院生たちは、授業以外の時間を十分に利用し、専門関連の本を大量に読み、専門知識を蓄えることが大事なのだ。わたしの研究(研究より勉強の方が妥当)方向は隋唐時代の中日文化交流なので、紀元589・06年間の中日文化交流史を主な読書内容としている。
    それに、自分の「本職」を忘れずに日本語の勉強も続けている。特に話すことには日々の練習が不可欠で、怠けると後戻りになる。日本人の教師はいるが、週に二時間半の授業時間しかない。時々日本との交流活動もある、日本東北大学公共政策大学院青年団との意見交換会、慶応義塾大学の尾崎康教授の文献学の講演など。しかし、日常的な言語環境のためにも、いつか日本で勉強したい。しかも、文化専攻なので、身をもって日本文化を感受することができたらうれしいと思う。日本ではさまざまなお祭りがあるそうだが、その賑やかさと風土人情を体験したい。
    クラスメートの中でわたしと同じ様に考えている人がたくさんいると思う。今月中旬、クラス全員で一緒に杭州臨安太湖源へ旅行に行った。皆の楽しそうな顔を見ても分かるように、私達はいまの院生生活を楽しんでいる。いつか自分達の夢が叶うように頑張っている。

「日本の心は『残心』と『礼』」とベネット氏
宮崎県での教育文化講演会で

    (財)宮崎県スポーツ施設協会、(財)日本武道館ほかの主催、宮崎県教育委員会、(財)宮崎県体育協会ほかの後援で、教育文化講演会「日本人のこころのふるさと―今、日本の国柄とは何かを考える」が、11月21日午前9時より宮崎県武道館において開催された。
    まず、関西大学准教授アレキサンダー・ベネット氏(剣道錬士七段)が、「外国人からみた日本人の心」と題して基調講演を行った。ベネット氏は、日本に留学し剣道を始めて以来、考えている日本の心について、「残心」と「礼」を挙げ武道の美に言及した。
    パネルディスカッションでは、小澤博(東京理科大教授、剣道教士八段)をコーディネーターに、原賢一郎(宮崎神宮祭儀課長、権禰宜、剣道教士七段)、関西剛康(南九州大学環境園芸学部准教授)、それにベネット氏がパネラーとなり、それぞれの視点から発言を行った。
    まず原氏が神職の立場から神話から読み取る剣の思想(つるぎのしそう)について、神武天皇に高倉下がたてまった「布都御魂」のフツに言及、邪悪なものを切る力、また神武さまのお言葉「養正」の正を考え、剣道の目的が「学剣養正」であると、会場に集まった剣道を学ぶ子供たちに話した。続いて小澤氏が海外での剣道指導と外国人の剣道を学ぶ姿勢にふれ、剣の思想とその歴史を語った。
    関西氏は日本の伝統的な造園技術と西洋の違いを述べ、日本の庭園に感じられる緊張感と気迫、目に見えないものをも感じ取るわが国の美意識に言及し、最後にベネット氏が基調講演を補足する発言を行ったあと、小澤氏がまとめをおこなった。
    この模様は、宮崎ケーブルテレビが収録、12月に放映した。
(S・H)