神道国際学会会報:神道フォーラム掲載
連載: 神道DNA(3) 「言挙げすることこそ大事」
三宅善信師

  第二六五代ローマ教皇ベネディクト16世が即位された。初の東欧出身で「空飛ぶ教皇」と言われた故ヨハネ・パウロ二世のイメージがあまりにも強いが、新教皇に選出されたドイツ出身のラッツィンガー枢機卿は、祝福とか慈善という意味の「ベネディクト」という教皇名を選ぶことによって、それだけで彼の施政方針を端的に表明している。また、欧米の指導者にとってみれば、大量破壊兵器が初めて使われ、ヨーロッパ社会に壊滅的な打撃を与えた第一次世界大戦の直後に即位し、世俗国家の仲介者としての新しいカトリック教会のあり方を目指したベネディクト15世の業績を想起させる効果がある。バチカンの大きな世界戦略が見て取れる。
   人類の大半をカバーしている宗教といえば、キリスト教とイスラム教である。このふたつの兄弟宗教に共通しているのは、「言葉の宗教」であるという点である。教えが言葉で説明できることによって、いつでも、どこでも、だれでも、その宗教を理解することができるからである。「裸のサル」ホモ・サピエンスは、高度な言語体系を確立することによって、その文明を全世界に発展させ、世代を超えて継承することができた。
   逆に言うと、言葉で説明できないことは、あくまでその人の個人的な体験に過ぎないことであって、普遍的なものではないということになる。それ故、自己の内面的な悟りを重視し、「不立文字」を標榜しているにもかかわらず、ディスカッションに力を入れてきた禅宗が、日本の諸宗教の中では、最も海外で受け入れられているのである。
   その点、近代以後の神社界では、「言挙げしない」ということを日本神道の奥ゆかしさのように言う人があるが、大きな間違いである。仏教やキリスト教と正々堂々と真正面からディスカッションのできる人材が、わが神道には不足しているというだけのことである。
   日本語では「言葉」のことを古くは「事の端」と言ったが、その意味は、「(言葉として)いったん口に出して言ってしまうと、その事が現実の世界で起こってしまう」ということである。つまり、「言の始まり」が「事の始め」となるということである。つまり、わざわざ言葉にして発するということの責任は大きいのであって、そのことがもたらすであろう相手との摩擦も真正面から受けて立つという覚悟が問われるのである。それを「言挙げ」というのである。つまり、「言挙げ」とは「覚悟」の有無の問題である。
   最近、中国各地で起きた「反日デモ」――もちろん、デモという行為は民意の表明方法として認められた正当な行為であるが、そのことと、国際法で当該国政府によって保護されるべきことが規定されている外国の大使館(総領事館)への破壊活動とは別物であることは言うまでもない――に対する日本政府や経済界の態度と同じである。私には、本気で中国政府に対して「謝罪」と「補償」を求めているようには思えない。
   中国では、(中国政府の意を受けた)民間の会社が「無償で割れたガラスを入れ直す」などという不埒な解決法を提案しているようだが、とんでもないことである。日本政府は、今回の中国国内での違法行為に対して、中国政府に対して、国際社会において公然と「謝罪」と「補償」をさせなければならない。その摩擦を真正面から受けて立つ決意と覚悟があるかどうかという問題である。ましてや、単に、「デモが鎮静化すればよい」とか、「経済活動に支障を来さないよう大人の解決を」などという言辞は論外である。つまり、「言挙げ」することこそ重要なのである。
   私は、現在開催中の「愛・地球博」において、5月2日にはカンボジア王国の殿下らを招いて『多様な民族のスピリテュアリティ』、22日には南アジアの青年たちと『アジアの子供たちの支援のために』、23日には日欧の宗教者と『水・森・いのち』、28日には中東の平和活動家を招いて『宗教者は文明の衝突を回避できるか』という4回の国際シンポジウムに、モデレータあるいはパネリストとして出演し、異なった文化的背景を持つ人々と自らの信念に基づいて「言挙げ」し、また、彼らから大いに学ぶつもりである。



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