神道国際学会会報:神道フォーラム掲載
連載: 神道DNA 『国家主権よりも宗教・民族・言語を』
三宅 善信 師

   3月10日は、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世が中国人民解放軍からの攻撃を逃れ、ヒマラヤを越えてインドへ亡命するために密かにポタラ宮殿を脱出してちょうど50周年になる。世界の各地で中国政府に対する抗議活動が行われるであろう。しかし、私は何も中国政府を批判するためにこの原稿を書いているのではない。本件を主権国家と宗教あるいは民族、言語との関係について考えるひとつのケーススタディにしていることを最初に断っておきたい。
   近代国民国家は、「領土」と「国民」と「主権(統治機構)」によって構成される。領土と国民についてはあらためて説明するまでもないであろうから、今回は「主権」にスポットを当てて考察を進めたい。大陸では「人類の歴史は戦争の歴史」であったので、これらに対する厳密な概念規定も行われたが、大陸から切り離された島国として存在した日本においては、夷敵による国境線の変更といった人為的な災害もなかったので、皇室のみならず、領土・国民・為政者の三者とも万世一系が維持されてきたので、かえってこの問題が理解されにくくなっている。
    国際法上の概念としての「主権」とは、通常、以下の3点からなる。すなわち、「対外主権」・「対内主権」・「最高決定権」の三点である。「対外主権」とは、ある国家が独自性を持った存在として対外的に「独立」している(他国からそう見なされている)という意味である。国際社会においては、人口十億の大国であろうと人口十万の小国であろうと「国家と国家の関係は平等である」ということが前提とされる。
    「対内主権」とは、国家はその領内においては、いかなる個人や団体に対しても、物理的実力(警察力等)を行使して自己の意志を貫徹することができるという意味であり、通常は「統治権」として認識される。つまり、国民に対して生殺与奪の権を有しているということである。
    また、「最高決定権」とは、その国家における至高の存在は誰かということである。人類社会に「国家」が成立して以来数千年間、ほとんどの場合は「君主」が主権者であったが、過去百年ほどの間に、ほとんどの国において「国民」が主権者(民主主義体制)となった。そして、その主権者たる国民が選挙等の意思表示手段を用いて代表者を選び、その人物(が指揮する政府)が人民を統治するという形をとっている。
    つまり、各個人の宗教や民族や言語といったアイデンティティーに関わる要素(基本的人権)は、「国家主権」という至高の権力の前では膝を屈しなければならないということになる。しかし、こんなことが21世紀の現在に許されて良いはずはない。そもそも、「主権国家は至高の存在である」という概念は、「朕は国家である」と曰う専制君主による横暴や、領邦国家を超越した権威として君臨したローマ・カトリック教会に対抗する概念として、18,19世紀の西欧において確立した。つまり、立憲君主制の下では、国王も国家の一機関に過ぎないということである。
    現在では、ある国や地域において、看過することのできないような大規模な基本的人権の侵害が起こっている場合、従来の国際法では「内政干渉」として批判されるので「見て見ぬふりをする」しかなかったような案件についても、カンボジア、旧ユーゴ、イラク等で見られたように、国際社会が積極的に介入して、当該国の国家主権を侵害して(場合によっては、現政権を崩壊させて)までも、基本的人権を尊重させようという考え方に変わって来つつある。つまり、「主権国家は至高の存在である」という前提そのものが揺らいでいるのである。
    ましてや、ある大国が隣接する小国を武力によって併呑したような場合、その大国が被征服地域内の人民のアイデンティティーに関わる伝統的な宗教・民族・言語等をむりやり規制し、大国のそれと同化させようとしたことに対する抵抗運動が起きた場合、これを武力弾圧する際に大国側が必ず主張する「これはわが国の内政問題である」というような20世紀的な言い訳はもはや通用しない。なぜなら、数十年しか賞味期限のない、長くてもせいぜい数百年ももたない特定の国家の統治機構(主権)と、宗教・民族・言語といった千年以上にもわたって保存されるDNAのごとき人間のアイデンティティーのどちらを尊重すべきかと問われれば、私なら迷うことなく「人間のアイデンティティーを尊重せよ」と答えるからである。

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