神道国際学会会報:神道フォーラム掲載
投稿 「台湾の神社旧跡を訪ねて思う」

 昨年11月24日から4泊5日の日程でおこなわれた「台湾の神社旧蹟と狛犬に逢ふ旅」に参加する機会を得た。この旅を主催した上杉千郷実行委員会委員長(皇學館大學理事長)にお誘いを受けたからである。一行の中には狛犬を愛好する方が全国より集っておられたが、私は全くの門外漢であった。唯、神社に関する視察ということに心を動かされたのである。帰国後、台湾の神社旧蹟をめぐる旅をふりかえってみた時、私にとって日本という国のあり方を考える上で大変貴重な視点を提供してくれたのではないかと思う。
 現在私は、三重の地に於いて日本を再生させ誇りある国造りを目指す国民運動に携っているが、海外にあった神社の旧蹟がこれほどまでに強烈な印象を私の心に与えるとは出発前には考えもしなかった。何故なのであろうか。それは訪れた神社旧蹟の規模が予想を超えて宏大であり、本格的な神社建築であった為である。そして神社旧蹟を尋ね歩いているうちに、大日本帝国と称されていた戦前の日本の姿が私の目の前に突然現れ出したのである。それは現在の日本人には想像もつかない強い帝国であり、国家としての意思を明確に持ち、日本の建国の理想である天照大御神の神勅(たとえば八紘一宇)を世界に向けて発信し、少なくともアジアに於てはその理想を具体的に実行しつつあった誇り高き自立自存の独立国家の姿であった。明治維新を成し遂げた近代国家日本の勇姿が台湾の神社旧蹟の中より浮んで来たのだ。
 日清・日露の勝利を得て大東亜戦争へとつながる日本の国家としての歩みを私はあらためて思い起していた。敗戦後、この日本の歩みはことごとく誤っていたとして否定され、日本の国は国家としての意思をもたない、安全保障も他国にゆだねる国となってしまった。それは勿論、アメリカの占領政策によって日本人としての拠り所をうばわれてしまったことにもよるのであるが。私は台湾に残る神社旧蹟をたどりながら近代日本が当時の苛酷な国際環境に苦悩しながら必死に独立を守る為に立ち上らざるを得なかった当時の日本について深く思いを馳せずにはおられなかった。
 さて、台湾に日本の神社が創建されたのは明治29年、県社に列せられた開山神社が初めてであり、敗戦まで計68社が鎮座したと記録されている。内訳は官国幣社5社、県社11社、郷社20社、それに台湾護国神社と無格社三32社であった。非公認の神社にいたっては200社以上あったそうである。周知のように台湾は日清戦争の勝利によって清国より割譲されたものである。日本にとって神社を現地に創建する意義は、第一に移住した日本人の信仰の場であり、又いわゆる現地人の皇民化という役割も担っていたであろう。今回の視察旅行は十箇所の旧神社旧蹟、すなわち台湾神社、台南神社、高雄神社、開山神社、桃園神社、汐止神社、東石神社、嘉義神社、基隆神社、宜蘭神社を尋ねた。そのうち最初に訪れた台北に残る桃園神社について印象を記したい。
 桃園神社は台湾の神社の中でほぼ完全な形で残っている神社である。本殿、拝殿、社務所、石段、神馬、正門、玉垣、狛犬、手水舎、賽銭箱も残っていた。日本の神社と異なる所は、境域を囲む木々の種類である。だが神社のシンボルである鳥居は上部の笠木が取り除かれ、あわれをさそった。その姿は日本が敗けたことをいやでも印象付け私は無念の思いにかられた。
 最後に訪れた基隆神社は街を一望に見下す高い丘の上に建てられ長い急な石段が続いていた。狛犬の目が白のペンキで塗られていたり「奉献」の文字がコンクリートで塗りつぶされたりしているのを見ると、その無残な姿に胸をしめつけられたものである。神社が忠烈祠となっている所も多かった。忠烈祠とは日本と戦った国民党の抗日戦士を祀っている施設をいうのであるが、国民党政府は日本の建物を敢えて完全に破壊せず、中国式に改造することで日本統治時代の終りを人々に知らしめようとしたのである。現在、台湾では日本時代の建物を遺跡として保存しようという動きがあるという。大日本帝国と呼ばれていた当時の日本は現在の日本人が考えるよりも、何かとてつもないエネルギーを持ち国民が心をひとつに自分のことよりも公(おおやけ)の為に生きていたのではなかろうか。大東亜戦争は日本の歴史上稀(まれ)にみる叙事詩だったのではなかろうか。私達は敗戦から62年、あまりにも自己批判をし過ぎたのではないのか。台湾に残る神社の旧蹟は私達にもう一度大東亜戦争とは何だったのか、そして祖国を守る為に死地に赴いた英霊達の思いをしっかりと受け取めて欲しいと訴えているように思われた。一対の狛犬もそのように語りかけているように感じたのは私だけであろうか。最後に「国民の文明史」の著者中西輝政氏の言葉を引用してむすびとしたい。
いまの日本人が危機感を持てない理由は、もし歴史的な危機というものを認識したならば「タブー」に挑戦し戦後の日本というものを超えてゆかねばならなくなるからだ。戦後の日本には憲法や歴史解釈をはじめとしていくつもの大きな「タブー」がありそのほとんどを突破することなく今日迄来てしまった。(中略)大切なことは「タブー」を一日も早くタブーでなくし平常心をもって超えてゆけるかどうかである。そのための大きな勇気、大地に足をつけた日本人の精神の甦りこそが求められている

平成20年2月17日・祈年祭の日に
  古海玲子(三重県)


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