神道国際学会会報:神道フォーラム掲載

宗際・学際・人際

阿南・ヴァージニア・史代さん

(テンプル大学教授 〈歴史地理・中国史・円仁研究〉)

『円仁慈覚大師の足跡を訪ねて』を刊行

歩いて見て聞いて──唐での足跡をつぶさに追う

 慈覚大師・円仁の『入唐求法巡礼行記』。そのライシャワー元駐日大使による英訳本を読んで以来、円仁の10年近くにおよぶ唐での巡礼行に興味を寄せてきた。足跡をつぶさに追った調査旅行が一段落し、このほど、『円仁慈覚大師の足跡を訪ねて』を上梓した。
 1980年代、北京に滞在したころ、西安(古代の長安)、五台山、揚州など、円仁が比較的ながく逗留した場所を巡り歩いた。「当時は、どこに行くにも、いちいち中国政府の許可をもらわなければならない時代でした」
 90年代になると、往来できるエリアも増えて、調査も楽になった。2001年、夫・惟茂氏が駐中国大使となり、ふたたび北京に滞在。未訪の地を精力的に訪ねた。「旅人からすると、だいぶ開放されて、点ではなく線を行けるようになりましたね。円仁の歩いた道、小さな運河沿いを辿ったりしました」
 一昨年、帰国。「残ったのが海の道≠ナす。円仁は最後の遣唐使船に乗り込んだ。それにならって、船で中国に渡ってみました。出航前には難波津の海の神様、住吉大社でご祈祷いただいて。そして青島から下関へ、北の航路で帰ってきました」 その下関では、無事に帰国できたことに感謝して、下関・住吉神社に参拝した。さらに、求法の旅における円仁の意思、心情に近づこうと、最後は博多津、大宰府にも足を運ぶ徹底ぶりだった。
 くまなく歩き、そして『――足跡を訪ねて』をまとめることで、今の人々に伝えたいメッセージがあるという。
 「一つは、円仁と人々との交流があったこと。在唐の新羅人、一般の民衆の助けも借り、家に行って食事をいただき、心を通わせている。もちろん、お坊さんから中国仏教を学んだし、インドから来ていたお坊さんからはサンスクリット語を習っている。言ってみれば、東アジアの交流を自然にやっていたのですね」
 もう一つは、円仁の固い決意、向上心だ。ときに円仁は41歳。叡山で僧侶として確たる地歩を築きつつあった。「危険を冒してまで外国に行く必要がなかった。それでも学びたいという決意、苦労しても得るものを得て帰ってくるぞ、という気概がありました。見習うべき姿だと思います」
 唐では仏教弾圧も勃発していた。「仏教が廃れるかもしれない。なおさら、しっかり仏法を持ち帰らねばと思ったはずです」
 さらにもう一つ。「それは、歩いてみること。ゆっくりと、広い角度から世界を眺め、事実を大きく掴むこと」。これは研究者として心に銘じていることでもある。専門は歴史地理学。史料や文献も読むが、「歩いて、現地の人から話を聞く。足と目と耳を使うのが私の研究スタイルです」
 『――足跡を訪ねて』には現地で自ら撮った写真も多く入れた。1200年の時空を越えての追跡、踏破。「出版記念パーティーで、比叡山のお坊さんに『この本のあなたは行者ですね』と言っていただきました」と笑った。

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