第17号 9月15日刊行 神道国際学会会報:神道フォーラム掲載
連載: 神道DNA 『遣唐使がもたらした伝染病と神々』
三宅 善信 師


 5月に住吉大社で開催された『日中交流1400年記念国際シンポジウム:住吉津より波濤を越えて』に対応する『遣隋使・遣唐使1400周年記念国際シンポジウム:東アジア文化交流の源流』が、9月15・16両日、中国杭州市の浙江工商大学の主催で開催され、日中両国の研究者が大勢参加したが、私も大阪でのシンポジウムに引き続きこれに出席し、日中の国柄の違いについて考える機会を得た。
 古代も現代も、中国と日本の最大の相違は、それが大陸にあるか海中にあるかの違いである。中国は、極端な言い方をすれば、西はヨーロッパの西端イベリア半島、南はアフリカの南端喜望峰まで続く広大なユーラシア・アフリカ大陸と「地続き」であって、わずか200キロメートルとはいえ、日本列島はこの広大な大地から切り離されているのである。
 この差は、こと伝染病(医学用語では「感染症」)に関して言えば、決定的である。人類の歴史始まって以来、数々の伝染病が繰り返されてきた中国大陸(朝鮮半島や渤海国も含む)に日本から使者を送るということは、同時に、これまでこの列島に暮らす人々が経験したことがなかった(免疫がなかった)新たな伝染病への感染の危険に日本人自身を曝すことになった。
 7世紀から9世紀の200数10年間に20数回派遣された(註=派遣回数には諸説ある)とされる遣隋唐使はまた、その本来の目的である大陸の「優れた文物」と共に、多くの伝染病も日本にもたらした。最も有名な事例は、多治比広成が大使を務めて735年(天平5年)に帰朝した遣唐使が持ち込んだとされる天然痘(疱瘡)の流行によって、大宝律令の編纂や平城京遷都を断行し律令国家の礎を築いた藤原不比等を継いで権力の中心に居た不比等の4人の息子(註=聖武天皇の光明皇后とは異母兄弟)、武智麻呂、房前、宇合、麻呂をはじめ、時の政権の実務官僚の多数が737年に相次いで病死したことが挙げられる。
 この「事件」が、聖武天皇を政治の中心へと押し上げると共に、それまで聖武帝自らが理想としていた「儒教的聖天子像」から一転して、仏教の熱心な帰依者(註=自ら建立した東大寺の盧舎那仏を前に、自らを「三宝の奴」とまで宣言している)としての天皇像を確立させたことは、中国的律令国家体制から日本的律令国家体制を決別させる契機とさえなった。
 ところで、伝染病が継続的に人々の間で相互感染するためには、約5万人の人口集積が必要とされている(註=疫学的には、人口集積がそれ以下だと流行は自然と収束する)。平城京は日本で初めて人口が五万人に達した都市であったので、当時、唐、新羅、渤海などとの間で交わされた外交使節が危険因子であったことは言うまでもない。ただし、当時の人々は近代科学的な知識を持ち合わせていなかったので、その対策は、経験や宗教に頼るしかなかったのは当然である。
 8世紀末から19世紀まで千年以上にわたって日本の首都であった平安京は、平城京よりさらに大規模な人口を有していたので、権力闘争に基づく戦禍と共に、伝染病対策はより深刻な課題であった。その中でも有名なのは、今日まで伝わる八坂神社の「祇園祭(蘇民将来の説話)」であり、また、「大江山の鬼(酒呑童子)退治説話」である。共に疱瘡除けが主たるテーマである。古代は言うまでもなく、疱瘡神が嫌うと信じられていた張り子の犬や赤色や庚申塚や鍾馗にまつわる民間信仰は、近代まで至る所で見られた。
 9世紀末の宇多天皇の時代に、藤原佐世が撰述した『日本国見在書目録』には、宮中には、1309巻にも及ぶ中国医書があったことが報告されている。経験的な伝染病対策としては、現在においても「隔離」が最も有効な手段である。その意味でも、直接、大陸からの使者を王城の地に招聘するのではなく、筑紫国の太宰府や、備後国の鞆之津(沼隈神社=祇園宮)で「饗応」と称して、一時停泊させ、その間に伝染病の発症を観察したのではないかと考えられる。因みに、八坂神社も沼隈神社も、その祭神は素戔嗚尊であるが、明治維新の神仏分離以前には、これらの祭神は、道教系の「牛頭天王」であったことも、古代以来の中国文化と日本文化を比較する上で興味深い。


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