第17号 9月15日刊行 神道国際学会会報:神道フォーラム掲載

宗際・学際・人際

南谷美保氏

(四天王寺国際仏教大学教授)


「ときに途切れかかった道を
  つないできた人たちの努力を明らかにしたい」

対象の持つ意義を考え、ひたすらに撮る


 楽人の実生活を知る

 私の場合、何を研究しているのですかという質問に答えるのが、いつも困るのです。というのは、雅楽を研究していますが、雅楽の歴史そのものや音楽そのものではなく、雅楽を支えてきた人たちの生活についての研究をしています、とお返事しても、なかなかご理解いただけないので。
 しかし、雅楽という音楽分野を千年以上にもわたって継承し続けて来た雅楽演奏家である楽人たちの生活や、彼らが雅楽をどのように伝えてきたのかを明らかにする必要があるだろうと考えて、このようなマイナーな分野に取り組んでいます。
 この分野に足を踏み入れるきっかけとなったのは、京都大学図書館が所蔵する天王寺楽所の林家が遺した江戸時代の記録を読み出したことです。 
 安土桃山時代以降、公的な雅楽演奏機関は、京都方・奈良方・大阪、つまり天王寺方の三地域を本拠地とする演奏家の合同組織、「三方楽所」と呼ばれる組織として編成されていたのですが、そのうちの天王寺方の楽人の一家である林家の記録が残っているのです。
 その記録の中から、どうやって江戸時代の楽人は生活費を稼いでいたのか、という極めて現実的な問題を明らかにしようと試みました。面白いもので、江戸時代の楽人は、いわば現在でいうところの公務員でありながら、二股を掛けている。片足は江戸幕府に、もう一方は天皇方に。つまり、両方からお給料を貰っていたのです。しかし、それだけでは生活できないので、江戸時代の中頃から、僧侶や裕福な商人階層に雅楽を教え、受け取った謝礼も、生活の支えになっていたようです。こうした楽人の生活実態を探ってみようというのが、私の研究テーマです。
  江戸時代の楽人の日記といえば、やはり天王寺方の一家である東儀家の東儀文均の日記が国会図書館に遺されています。これには、公的な演奏記録とともにプライベートなことも書かれています。子供が病気で心配だとか、今日は、家族が出かけて一人で留守番だとか。そうした記録に混じって、雅楽を教えた謝礼の記録などが記されているのです。
  こうしたテーマについては、すでに優れた先行研究が行われてはいるのですが、雅楽の音楽そのものから離れた部分であるために、雅楽研究としてはマイナーな分野です。しかし、楽人の生き様、暮らしぶりを明らかにすることも、雅楽研究の重要な部分だと思います。
 さて、江戸時代になると、三方楽所の楽人の一部が召されて江戸城の紅葉山にも、雅楽演奏組織が置かれました。そのためか、江戸でも雅楽演奏を嗜む人々も結構多かったようです。
 明治以降も雅楽の伝統が途絶えることなく、また、三方楽所ゆかりの人々だけでなく、多くの人々が現在も雅楽演奏に関わっておられるのは、実は、江戸時代に、いわば高級なお稽古事として武家や富裕商人層を中心に、僧侶を含めて、全国に雅楽演奏の輪が拡がっていたという基盤があったからなのではないでしょうか。
 東儀文均の日記を見ると、そうした雅楽演奏の拡がりや、お弟子さんが、地方に戻ってその地域の雅楽のお師匠さんとして活躍していたということも分かるのです。

雅楽の歴史と意味と精神

 とはいえ、雅楽演奏に携わる人々にとって、雅楽とは、どのような意味を持つ音楽だったのでしょうか。この問題にも、興味を持っています。江戸時代の記録からは、ある意味、生業と割り切っていたといえる部分もありますが、当然、それだけではないでしょう。自らの演奏技能をみがき、一所懸命に演奏に携わり、後進の指導にあたり、伝統を引き継いでいく。その毎日を支えた精神面についても考えるうちに、さらに古い時代にも目を向けるようになりました。
 雅楽が、古代の宮廷組織に取り込まれ、支配階級にとって大きな意味を持つ音楽となった理由は何なのか。本来、雅楽とは、人間の娯楽のためではなく、神仏に捧げるため、儀式のための音楽であったわけですから、そこを忘れてしまっては、楽人の精神面を理解し損ねるでしょう。特に、四天王寺を本拠地とした天王寺方の場合は、聖徳太子との関係もあります。
 こうして、近世の楽人の生活実態を事実に即して明確にするという作業を行う一方で、雅楽演奏に携わった人々の精神の根底にあったものを明らかにしていきたいという気持ちも大切にしています。たとえば、六国史や説話集などの史・資料を丹念に読んでいって、音楽に関する記事・記録から何が見えるのか、そんな作業を積み重ねているところです。

   ◇  ◇

 雅楽の歴史についていえば、平安時代以降は、ひとまず固定されたものとして、連続性を前提とした考え方が行われてきました。このあり方は、最近は、少し変わってきていますが、特に、平安以前の状況について考える場合には、非連続性ということを十分に考える必要があると思います。
 というのは、この時代の仏像の様式を見ても、飛鳥から白鳳、天平、そして平安初期のものは、非常に大きく変化しているわけですから、雅楽だって、同じような変化を遂げていたのかもしれない。どちらも、仏教儀式の場に深く関わるものですから。
また、古い時代の雅楽の歴史を考える上では、中国つまり当時の隋や唐との交流も視野に入れなければならないでしょう。このように考えますと、今後は、雅楽研究を行う上では、美術の専門家や中国文化研究者などとの共同研究が不可欠になってくるのでしょう。
 雅楽というと“1400年の歴史”とよく言われます。でも、その歴史は、単純な一本の筋、一本の道ではなかったのですから、その複雑に入り組んだ道筋を明らかにする必要があるのです。ときに途切れかかった道を一所懸命に繋いできた楽人たちの努力と生活の様子、芸の道を紡ぎ続けてきた人々の思いを少しでも知りたい、それが私の研究テーマなのです。


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