神道国際学会会報:神道フォーラム掲載
連載: 神道DNA 『「国民の祝日」からみる日本人論』
三宅 善信 師


   本誌が皆さんのお手元に届くのは、 GW(ゴールデンウィーク)の終わった頃であろう。「年中無休」の私にとっては、何日休みが増えようがやっかむだけの話であるが、今年からまたひとつ「祝日」(昭和の日)が増えた。これに伴い、4月29日にあった「みどりの日」は、「憲法記念日」と「こどもの日」の間の5月4日に移動した。
   おかげで、年間の祝日は15日間にもなった。日本の祝日数は先進国の中でも群を抜いて多いことを皆さんはご存じであろうか? これには理由がある。高度経済成長を遂げ、欧米諸国との経済摩擦が激化した時代、既に欧米諸国が週休2日制であったのに、日本だけはそうではなかったので、年間労働時間数を他の先進諸国とバランスさせる(もちろん「外圧」が働いた)ために、日本政府がやたらと「国民の祝日」を増やしたのである。その後、日本にも週休2日制が導入されたので、結果的には、日本人の年間労働日数は先進国中最低水準となり、有史以来の、否、天照大神をはじめ神々も働かれたので、天地開闢以来の日本人の「勤勉」の伝統は何処へやらである。
   さて、本題の『国民の祝日』であるが、現在の日本の祝日は1948年に制定された『国民の祝日に関する法律』によって規定されている。もちろん、戦前にも「祝祭日」というのがあった。天長節や紀元節といった国家的祝日や新嘗祭や神嘗祭などの神道儀礼に関わる祭日であった。「旗日」といっても、その日は「登校日」で、全校生徒が『君が代』斉唱。モーニングに白手袋で威儀を正した校長先生が『教育勅語』を奉読。短い訓話の後、「○○節の歌」を全校生徒で唱和し、「紅白饅頭(当時は甘いものは貴重)」をもらって解散(授業はなし)。という段取りで、「当時の子供たちは、とても楽しみにしていた」と、昭和3年生まれの亡父から聞いたことがある。
   たいていの国では、国家の記念日(独立記念日・革命記念日など)や宗教的に特別な日を「祝日」としている。米国を例に取ると、「独立記念日(7月4日)」や「退役軍人の日(11月11日)」などである。中国だって、「国慶節(10月1日)」や「メーデー(5月1日)」などが国家的イベントとして大々的に祝われる。そもそも、「祝日」とは、○年○月○日という歴史上の特定の出来事を記念する国家にとって極めて政治的な行事だからである。花火大会や軍事パレードには、元首が国民の前に姿を現すのが常である。ところが、日本の「祝日」はこうではないのである。以下、1948年に制定された『国民の祝日に関する法律』の条文に目を通してみよう。

第一条(意義)  自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。

  いったい「何に感謝」するのだろう? 主語・述語・目的語のハッキリしている英語なら「ゴッド(神)」なんだろうが…。私たち日本人が「感謝する」対象は、「お天道様」に象徴される天地自然や「ご先祖様」であろうか。特定の宗教的な教義や崇敬対象(神仏等)でないことは明らかである。その証拠に、わが国の祝日には、自然に関する祝日が圧倒的に多い。春分の日・みどりの日・海の日・秋分の日、これらの祝日は皆、主体は人間ではなくて自然である。それに、もう少し枠を拡げて、成人の日・こどもの日・敬老の日・体育の日・文化の日・勤労感謝の日、あたりも必然性がなんだかよく解らない。海の日があって「山の日」がないのは何故か? 体育の日があって「音楽の日」がないのは何故か? これらの問いに、合理的な答えを出せる人はおるまい。なぜなら、もともとの「祝日」そのものの論理的な根拠がないからである。
   年間15回もある日本の祝日の中で、日程上の必然性があるのは、元日と憲法記念日と天皇誕生日の3つだけである。あとの祝日は、どの日がどの日になったって構わない。だが、ここに日本の祝日の秘密を解く鍵がある。これらの3つの祝日には、「○○の日」という「の」が付いていない。そのものズバリである。その他の祝日には、全て「○○の日」というように、「の」が付いている。これは、人為である歴史的事実を明らかにするよりも、為政者の責任を曖昧にして、政治的決定を季節や風土(「外圧」?)などのせいにしてしまう日本人の政治的テイストを端的に現していて興味深い。


Copyright(C) 2007 SKG all rights reserved
当ウェブサイト内の文章および画像の無断使用・転載を禁止します。