神道国際学会会報:神道フォーラム掲載
連載: 神道DNA 「遣隋唐使は何をしに行ったのか」
三宅 善信 師

 607年(推古十五年)に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という有名な書き出しで始まる「国書」を奉じて、小野妹子が随に派遣されて、今年でちょうど1400年になる。いわゆる遣隋使である。その後、日本は894年に遣唐使が廃止されるまで、約300年間にわたって20数回の遣隋使・遣唐使が「中華皇帝」の元へと派遣され続けたことは、小学校や中学校でも習うから、日本人なら誰でも知っていることである。その理由としては、「中国の先進的な技術の習得や仏教経典の収集を目的とした」と教えられた。
 しかし、本当にそのことが遣隋唐使の第一の目的であったのであろうか? われわれは、遣隋唐使についてあまりにも知らないことが多すぎる。意外かもしれないが、そもそも、「遣隋使」という言葉さえ、日本書紀には出てこない。日本書紀には、「小野妹子が大唐国に国書をもって遣わされた」とのみ記述されている。
  一方、隋の正史である『隋書』の「東夷伝」中の「倭人伝」には、妹子の名前は出てこない。天下を治めす中華皇帝から見れば「陪臣」(臣下の臣下)に過ぎない妹子の人格に関心なんかないからだ。しかし、東夷の分際で無礼な国書を寄こした倭国に対して、煬帝は激怒したにもかかわらず、わざわざ返礼使として裴世清を遣わしていることも不思議だ。
 さらに、『隋書』には、小野妹子に先立つこと七年、高祖文帝の時代(600年)に、倭国の「姓阿毎、字多利思比孤」(姓アメ、字タリシヒコ)なる男性名の王から来貢したことが記されている。しかし、日本書紀にはその記述がない。しかも、600年は推古天皇八年で、女帝のはずである。このように解らないことだらけである。
 中国の王朝が隋から唐へと変わった後も、20回、二百数十年にわたって遣唐使が派遣されたが、この10数年に一度という派遣回数は、当時、遣唐使を派遣していた諸国(註=50数カ国が唐に外交団を派遣していた)の中では、極めて少ない。事実、犬神御田鍬が派遣された第一回遣唐使(630年)の際には、太宗は、「その道の遠きを矜み、歳貢する必要はない」(『旧唐書』東夷倭国)と命じている。当時、アジア各国から大唐帝国へと毎年のように使節が派遣されていたのだ。
  さらに、日本からは超大国の唐だけでなく、遣新羅使が31回、遣渤海使が16回も派遣されており、これらの史実を勘案すると、学校で習った「中国の先進的な技術の習得や仏教経典の収集を目的とした」という理由だけでは説明しきれない。現在、朝鮮半島の非核化を巡って、北京で「6カ国協議」が行われているが、それよりも高頻度で、1400年前にも、隋・唐という強大な統一中華帝国周辺諸国の生き残りを懸けた合従連衡の外交情報戦が繰り広げられていたのである。つまり、遣隋唐使の主な目的は、国益を保全するための外交活動であり、現在で言えば、安保理をはじめとする国連諸機関を舞台にした外交合戦のようなものである。当然、強大な統一中華帝国が存在しない時期(分裂時代)には、周辺諸国もそれほど外交使節を派遣していない。
 面白いことに、やっとのことで煬帝の返書を持ち帰ったはずの小野妹子は、帰国後、「返書は百済に盗まれてなくしてしまった」と報告している。もちろん、大嘘であろう。聖徳太子が精一杯背伸びして書いた国書に対する煬帝の返書があまりに侮辱的だったので、ありのままを報告したら自分の責任を問われかねないので、妹子自ら破棄したものと思われる。現在でも、外交交渉で十分な成果を得られなかった力量不足の外交官ほど、本国へ帰った際には、本交渉内容とはまったく別の勇ましい報告を「国内向け」に捏造しているものと思われる。
 ただ、300年間にわたるすべての遣隋唐使に共通していたのは、いずれも、摂津国(現大阪府)の住吉津から出航したということである。本年、5月8・9両日、住吉大社を会場に、日中交流1400年記念国際シンポジウム『住吉津より波濤を越えて――遣隋使・遣唐使がもたらしたもの――』が開催される。日中の研究者を集めて、私がコーディネータを務めるので、興味のある方は、ぜひご参加いただきたい。

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