神道国際学会会報:神道フォーラム掲載
連載: 神道DNA 「すべての道はローマに通じる?」
三宅善信師

    1年半前、新しいローマ教皇にベネディクト16世が即位したことについて触れ、『言挙げすることこそ大事』と題して本エッセイを書いた。神道フォーラム第3号をお持ちの方は、もう一度読み返していただきたい。そこでは、バチカンの世界戦略と、わが神社界ひいては日本社会自体の、自分と価値体系を異にする人々に対するPR(パブリック・リレーションズ=戦略広報)の能力と意欲の欠如について、辛口の批判を試みた。
    私は、18歳の時(1977年)に、初めて時の教皇パウロ六世に「謁見(註:カトリック教会用語では、教皇に面会することを「謁見(Audience)」と呼ぶので、その習わしに従う)」したのを皮切りに、これまで数度、ローマ教皇に謁見するという機会に恵まれた。その内何度かは、世界宗教者平和会議の会長も務めた亡祖父の随行者として別室で個別にお目にかかり、親しくお話しをする(特別謁見)ということもあったし、また何度かは、大勢の巡礼者に対して教皇が祝福を行う際にお言葉を掛けられる(一般謁見)ということもあった。
    今回、私が取り上げたいのは、一般謁見(Public Aud-ience)についてである。読者の皆さんの中にも、バチカンを訪れられたことのある人は多いと思うので、その様子を眼にされた方もおられると思う。いうまでもなく、総本山サン・ピエトロ大聖堂の鎮座するバチカン市国は、「世界最小の独立国家」として小中学校の教科書にも載っているので誰でも知っているであろうが、同時に、ローマ・カトリック教会は、十億の信徒を擁する「世界最大の宗教」でもある。
    私は、この10月11日、バチカンへ参じて、この一般謁見に臨んだ。「宮内庁」から支給されたパスを持って、最上段の特別席に着いてしばらくすると、真っ白なランドクルーザー(お召車)上に屹立された教皇ベネディクト16世が入場され、数万の群衆は興奮の坩堝と化した。最近のイスラム教徒に対するネガティブな発言等で、身の危険もあるだろうに、防弾ガラスもないお召車ごと群衆の中に分け入って行かれ、人々を祝福した後、お召車ごとサン・ピエトロ大聖堂の階段を登って、中央に据えられた玉座に着席された。 
    そこで行われた礼拝は、フランス語・英語・ドイツ語・ポーランド語・スペイン語・イタリア語と次々と言語を替えながら、教皇自ら全世界から参集した巡礼団(註:司会者が揃いの服装や、小旗やハンカチを振って答える巡礼団の名前を読み上げて、その都度、教皇はその方向を一瞥して祝福)に対して祝福のメッセージを与えた。なんと人々の心を捕まえる演出に長けていることかと思う。こういう一般謁見を毎週一回するというのだからたいしたものである。礼拝終了後、退席されるドイツ出身の教皇に、ドイツ語で声を掛けさせていただくと、わざわざ私の目の前まで歩み寄って来られた教皇は祝福してくださり、その後、非常に限られた時間であったが、教皇に拙見を言上する(もちろん英語で)ことができた。その様子は現地のメディアにも紹介された。 
    一方、わが神道(仏教も同様であるが)では、神職(僧侶)はせっかく集まってくれた会衆に尻を向けて、神前(ご本尊)のほうを向いて恭しく頭を下げて祝詞を奏上(読経)するだけである。私がこんなことを言ったら、「あれはご祭神(ご本尊)様に言上しているのであって、人々に開陳しているのではない」と反論される神社(寺院)関係者が多いであろう。しかし、はたして本当にそうであろうか? カトリック教会でも、1960年代までは、全世界の教会で、典礼(ミサ等の儀礼)は中世以来の伝統に従ってラテン語で行われていた。当然、典礼に出席した大多数の会衆にとってはチンプンカンプンである。
    ところが、1962年〜65年にかけて行われた第二バチカン公会議によって、それまで千数百年間続いたカトリック教会の方向性を180度転換し、世界の諸宗教との間に対話を開始し、また、各国での典礼を(会衆に理解できる)その国の言葉に切り替え、各地の歴史や風習を尊重した宣教方式をとれるようにしたことである。その結果が、これまで欧州の白人中心であったカトリック教徒が、今では、全信徒の過半数が非白人になるまで拡大した。このことは、これからの神社界(日本社会全体も同様)を考えていく上で、ひとつのヒントになると思う。
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