| 「糺の森」の祭祀――自然から力を頂く古風の祭り
新木直人宮司 |
基調講話では賀茂御祖神社(下鴨神社)の新木宮司が、「糺の森」として知られる同神社と、その森の来歴について、そこで行なわれた祭りに込めた人々の思いなどとともに話した。
同宮司は、古文献から洛中洛外の森・杜・林をピックアップし、うち(1)比較的規模の大きな「森」に対し小規模なのが「杜」である(2)景観美と見られた寺院の森に対し、自然そのものとして信仰の対象となったのが神社の森である(3)森や山を拝するから林も「はやし」とされた、などと推測した。
「糺の森」の範囲の変遷や呼称の由来を紹介するなかで同宮司は、「木だけ密集するのが森かといえば必ずしもそうではない。森の中に人も住み、田も畑もある」とし、古代からのたたずまいを近世まで保ち続けた「糺の森」の貴重さを語った。
同宮司はさらに、皇室との関係が深くなって以降、関連の社殿造営や旧跡、奉幣の官祭があるものの、祭祀遺跡の調査結果などから推測すると、氏神として、あるいは人々の祈願としての「糺の森」の祭りが存在すると強調した。「社殿ではなく、昔ながらのお祭りを森の中で行なう。荒ぶる地霊を祭り、同時に森そのものをも祭る。人間では測り知れない木々の力――その力をいただくことが、例えばミアレ神事の根源にはある」などと話した。
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| 国栄えて山河なし=\―コンクリート漬けを憂慮 アレックス・カー氏 |
続く関連講話でカー理事は、「日本は森の国。森が残るのは日本の特徴だが、果たして今、伝統思想どおり木や自然や森を大事にしているだろうか」と問題を提起。スライドにより、自然を崩して造成された護岸や林道側壁、各種モニュメントや都会の看板・ネオンなどを示し、「国栄えて山河なし=\―日本という国そのものが彫刻化され、コンクリート漬けされてしまった」と憂慮した。「故事に、鬼を描くのは易しいが犬や馬は難しい、というのがある。目立って吃驚させることが大事で、身の回りの当たり前のことに意を注ぐことができなくなっている」と、日本人の嗜好の変化や行政の問題も指摘し、「日本には神宿る神秘がぎりぎり残っている。神道の信仰に救われて、神秘や伝統が助けられればいい」と話した。
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| 神道とケルト――詩的感性や「もののあわれ」に共通の精神 鎌田東二教授 |
もう一人、関連講話を担当した鎌田教授は、神道とケルトにみえる精神性の共通土台を探るため、十八世紀から二十世紀に登場した人物群に焦点を当てた。十八世紀の本居宣長、上田秋成、ゲーテ、十九世紀の平田篤胤、ウイリアム・ブレイク、二十世紀の折口信夫、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)、イェイツらを取り上げた。宣長や秋成、ゲーテにみる詩的な感性、歌詠みの心、モノ感覚、「もののあわれ」的な心性を分析し、「モノは単なる物質ではなく、霊性とか人格性につながる。この感覚を再認識して、一つの土台にしている」と解説した。さらに日本の場合、「モノにまつわる神性感覚があるからこそ、儀式も単なる形式事でなく、魂を入れる感覚を重視した」と話し、それがさまざまな供養文化や日本人の物作り、産業技術にもつながっていると強調した。ブレイクや篤胤も、想像力を駆使ししつつ霊的感覚を学問的に探求、表現したとした。最後に、「もののあわれ、もののけ、さらには物づくり、物語りをも含むようなモノ感覚から日本的霊性を語っていきたい。それは神道の森の感覚と根本から通じるのではないか」と語り、日本思想の探求に向けた座標を提示した。
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